日本陸上競技連盟史
黄金期:1927年度~1936年度
1927年度~1936年度
昭和2年4月~昭和12年3月
昭和に入り、日本は世界の陸上競技界で存在感を高め、黄金期へと突入していく。
1927年(昭和2年)10月9日、神宮大会近畿予選を兼ねた大阪選手権の女子100mで、人見絹枝(大阪毎日)が12秒4の世界タイをマークした。人見は1928年(昭和3年)5月20日には全日本選手権の走幅跳で5m98、100mで12秒2の世界新記録を出した。
1928年7月から8月にかけて開かれた第9回アムステルダム五輪には男子16、女子1の計17選手が参加。日本は4度目の五輪挑戦でついに大きな収穫を得る。男子三段跳で織田幹雄(早大)が15m21で優勝し、日本人最初の五輪金メダリストとなった。女子の日本人として初めて五輪に出場した人見は800mで銀メダルに輝いた。
織田は、競技第1日(7月29日)の走高跳は1m88で7位。第3日(7月31日)の走幅跳は7m11で決勝に残れず、入賞に届かずにいた。織田にとっては第5日(8月2日)の三段跳が上位を狙う最後のチャンスだった。競技は2組に分かれた予選の3回の試技で、記録上位6人が決勝に進出。さらに3回の跳躍の結果、予選も通じた最もいい記録によって順位が決まる方式。前日からの雨は上がったものの、助走路の状態は決して万全とは言えない条件で予選が始まった。世界陸連の記録によると、織田は1回目に15m02、2回目に15m13をマーク。3回目に15m21を出し、全体のトップで決勝に進んだ。別の組で跳んだ南部忠平(早大)は3回目の15m01で2位通過した。決勝で織田は4回目ファウル、5回目は14m30、最後の6回目もファウルと記録を伸ばせなかったが、4cm差で逃げ切り、頂点に立った。南部も決勝で記録を伸ばせず、メダルは逃したものの4位入賞した。
メインポールに翻った待望の日の丸は織田が持ち込んでいたもので、2位、3位の選手の国の旗と比べて格段に大きかった。国旗掲揚の際に流れた君が代は途中から始まり、途中で終わってしまったという。日本勢の優勝は大会側にとって予想外。慌ただしく準備されたということだろう。
人見の快挙も落胆の末に成し遂げられた。第2日(7月30日)の100mで上位が期待されながら準決勝で落選してしまう。最も得意とした走幅跳は実施種目になく、800mには一応エントリーしたものの走った経験は一度もない。だが、100mでメダルを逃した無念を晴らすために挑戦を決意した。第4日(8月1日)の予選を通過し、決勝は翌8月2日、男子三段跳の競技中に行われた。スタート後に先頭に立ったが後方に下がり、後半に勝負を懸けた。2周目に順位を上げ、最後の直線に入った段階で3番手。そこから無我夢中の走りで1人抜き、優勝したリナ・ラトケ(ドイツ)と2m差、2分17秒6で2位になった。フィニッシュ後、選手は疲労困憊で倒れ込み、女子選手に800mは過酷だとして五輪の実施種目から外れた。ようやく復活したのは1960年ローマ五輪だった。
他の日本勢も健闘し、男子マラソンで山田兼松(香川県坂出青年)が2時間35分29秒で4位、津田晴一郎(慶大)は2時間36分20秒で6位になった。走高跳の木村一夫(早大)は1m88で6位、棒高跳の中沢米太郎(東京高師)は3m90で6位に入っている。
全日本陸連がIAAF加盟
1928年8月7日、五輪に合わせてアムステルダムで開かれた国際陸上競技連盟(IAAF)総会で、全日本陸上競技連盟が大日本体育協会に代わる日本の統括団体として加盟が承認された。全日本陸連の名称は1945年(昭和20年)まで続いた。
東西に存在した大学の組織整備も進んだ。関東の大学を中心とした全国学生陸上競技連合と、関西の大学による大学専門学校陸上競技連盟が、協議の末に一本化することを1927年に決議。1928年に日本の学生陸上界を統括する団体として日本学生陸上競技連合が発足し、5月に東京・明治神宮競技場で第1回日本学生対校選手権(日本インターカレッジ)を開催した。この大会で織田幹雄(早大)は110mハードル、走幅跳、三段跳の3冠に輝いた。
1929年(昭和4年)には全日本陸連の役員をこれまでの理事長から「会長」「副会長」制に改め、平沼亮三会長が選任された。12月12日から競技場の公認、器具・器材の検定制度が始まった。
競技では5月19日、人見絹枝(大阪毎日)が全日本女子選手権(神宮)の200mで24秒7の世界新をマークした。
織田幹雄、南部忠平が世界新
1931年(昭和6年)10月27日、第6回神宮大会の第1日に行われた一般対学生対抗競技で2つの世界新記録が誕生した。男子三段跳で織田幹雄(浪速ク)が15m58、走幅跳で南部忠平(美津濃)が7m98をマークした。
織田の1回目は14m95。好調とは言えなかったが、気負わず跳んだ2回目にアンソニー・ウィンター(豪州)が1924年パリ五輪で樹立した世界記録(15m525)を示す旗のあたりに着地。ファウルだったが、実測15m51だったという。リラックスを意識した3回目に15m58。7年ぶりに世界記録を更新した。大島鎌吉(関大)も、この年の世界2位となる15m44をマークした。
南部はこの日、先に100mに出場。10秒5の日本新を樹立した吉岡隆徳に次いで、従来の日本記録と並ぶ10秒6で走っていた。走幅跳は三段跳の快記録の余韻が残る中でスタート。南部は好調を実感しながら跳躍に挑み、7m98。シルビオ・カトール(ハイチ)が1928年に出した7m93を塗り替えた。この種目の日本記録は織田が7度更新し、アムステルダム五輪翌年の1929年に南部が7m41を跳んで日本記録保持者となっていた。その後も記録を伸ばし、走幅跳は南部、三段跳は織田と専門種目を分け合うかたちで日本をリードしてきた。こうして2人がつかんだ世界記録保持者の称号だった。
人見絹枝が24歳の短い生涯を終えたのも1931年。アムステルダム五輪の800mで2位になった日と同じ8月2日のことだった。
ロサンゼルス五輪で躍進
三段跳・南部忠平が金、棒高跳・西田修平は銀、吉岡隆徳決勝へ
1932年(昭和7年)。第10回ロサンゼルス五輪で日本はさらに飛躍を遂げる。初めて選手村が設けられた大会。米国から遠く離れた欧州勢が参加を見合わせるケースが目立ったとはいえ、男子26、女子9の計35選手を派遣した日本は大きな存在感を示した。男子三段跳は南部忠平(早大OB)が15m72の世界新記録で金メダルに輝き、日本勢がこの種目2連覇。男子棒高跳は西田修平(早大)が2位に入った。男子100mは吉岡隆徳(東京高師)が決勝に進出し、6位入賞を果たした。
南部は競技第3日(8月2日)、まずは世界記録を持つ走幅跳に挑んだ。金メダルを期待されたが腰の痛みで本調子ではなく、1回目の7m45からは伸ばせず、銅メダルだった。田島直人(山口高OB)が7m15で6位に入賞した。三段跳が行われたのは第5日(8月4日)。ここでの本命は世界記録保持者の織田幹雄(大阪朝日)だったが、膝と足首を痛めており、本領を発揮できないまま13m97の12位にとどまった。南部は三段跳の練習をほとんどしておらず、助走距離を縮めて1回目は15m07、2回目は14m67。3回目に15m22を跳び、2番手で4回目以降に臨むことになった。4回目は14m89。5回目に跳躍が見事にはまり、15m72の世界新記録をマークして優勝を果たした。6回目は14m85。大会直前に風呂場でやけどを負っていた大島鎌吉(関大)が15m12で3位に入り、2つの日の丸が掲揚された。
棒高跳の西田は第4日(8月3日)、大飛躍を展開した。前日の練習中に脚を痛めていたが、地元米国勢を相手に堂々とした戦いぶり。4m20の日本新をマークすると4m25は3回目に成功。これで2位以上が決まった。4m30はビル・ミラーが1回でクリア。西田は3回目に成功し、食い下がったが4m35は3回とも失敗。ミラーが3回目に跳んで優勝し、西田は銀メダルを得た。望月倭夫(東京高師)は4m00で6位になった。
陸上の花、男子100mの吉岡は第1日(7月31日)の1次予選を10秒9で7組1着、2次予選は10秒8の3組2着で通過した。翌8月1日の準決勝は10秒8の1組3着で突破。決勝は白鉢巻姿で得意のスタートダッシュを決め、30mでは大きくリードを奪った。だが、60mあたりから追い上げられ、70mあたりでエディ・トーラン、ラルフ・メトカーフ(ともに米国)に抜かれると、その後も順位を落とした。それでも10秒8の6位。日本短距離初の入賞を果たした。抜群のスタートダッシュは「暁の超特急」の名で伝説となっている。
女子やり投の真保正子(大阪泉尾高女教員)は39m08の日本新で4位に健闘。男子走高跳は織田が棄権したものの、木村一夫(早大)が1m90で2大会連続の6位になった。男子マラソンは津田晴一郎(慶大OB)が5位、日本が統治していた朝鮮半島出身の金恩培(養正高普)が6位。リレーでも健闘し、吉岡、南部、阿武巌夫、中島亥太郎の4×100mリレー、中島、増田磯、大木正幹、西貞一の4×400mリレー、村岡美枝、中西みち、土倉麻、渡辺すみ子の4×100mリレーはいずれも5位に入った。
1932年1月には全日本陸連の功労章、勲功章、世界記録樹立章、顧問制度が設けられ、1933年(昭和8年)11月2日、陸連内に12の専門委員会が設置された。
1934年(昭和9年)、9月に米国チームが来日。東京と大阪で日米対抗を開催した。大島謙吉(浪速ク)が三段跳で15m82、原田正夫(京大)が15m75を跳び、世界記録を上回ったが、公認されなかった。ラルフ・メトカーフが男子100mで10秒3の世界タイを出した。
1935年(昭和10年)は4月3日、オリンピック候補対抗の男子マラソンで池中康雄(東洋大)が2時間26分44秒の世界最高。6月15日には日本・フィリピン対抗で吉岡隆徳が10秒3の世界タイをマークした。11月1~3日の全日本選手権ではマラソンで孫基禎(養正高普)が世界最高を2時間26分42秒に塗り替えた。
ベルリン五輪で歴史的活躍
男子三段跳3連覇、金メダル2、銀2、銅3
男子三段跳は競技第5日(8月6日)に行われた。田島は1回目に南部が前回五輪で出した15m72の五輪記録を塗り替える15m76でトップに立った。2回目はファウル。3回目は15m44。16m00を跳んだのは4回目。世界陸連の資料によるとホップ6m20、ステップ4m80、ジャンプ5m00として、史上初の16mジャンパーとなった。原田正夫(日立)が6回目に15m66を跳んで銀メダルを獲得し、日本はワン・ツーの快挙も達成した。大島謙吉(大阪毎日)は15m07で6位入賞した。
田島は8月4日の走幅跳でも7m74で銅メダルを手にした。4位とは1cm差だった。優勝は8m06のジェシー・オーエンス(米国)。オーエンスは100m、200m、4×100mリレーを合わせた史上初の4冠に輝く活躍だった。
競技最終日の8月9日に男子マラソンは行われた。56人が参加。序盤は前回優勝のフアン・サバラ(アルゼンチン)がリードし、中盤には孫とアーニー・ハーパー(英国)が追う展開。28㎞でサバラのペースが鈍り、孫がスピードを上げて抜こうとしたが、ハーパーが手で制する場面も。それでも30㎞過ぎにトップに立つと、リズムを保ち、フィニッシュテープを切った。2時間29分12秒2。同じく朝鮮半島出身の南昇竜(明大)がハーパーに次いで2時間31分42秒0で銅メダルを獲得した。
第4日(8月5日)の男子棒高跳は予想通り日米の激突となった。4m00を16人が越え、強い雨のため競技は一時中断。4m15から競技は再開され、西田、大江は1回でクリアした。4m25は日本の2人とアール・メドウズ、ウィリアム・セフトン(ともに米国)が成功した。4m35の五輪新はメドウズだけが成功し、金メダル。失敗した3人は4m15のジャンプオフでセフトンが脱落。西田と大江はこれ以上の順位決定はせず、公式記録は試技数の差で西田が2位、大江が3位となった。友情のメダルの物語は、世界陸連の五輪記録集でも「友情の証として、彼らはメダルを二つに切り分け、溶接でつなぎ合わせた」と紹介されている。安達清(早大)は4m00で6位に入った。
メダルには届かなかったが、トラックでの村社講平(中大)の健闘も注目を集めた。第1日(8月2日)の男子10000mで強豪フィンランドの3選手に立ち向かい、序盤から積極的に前でレースを進めた。ラスト1周で抜かれて表彰台に届かず、30分25秒0の日本新を出しながらも4位。それでも小柄な日本選手が大男のフィンランド勢としのぎを削る姿に「ムラコソ、ムラコソ」の大声援が送られた。第6日(8月7日)の5000m決勝でも14分30秒0の日本新で再び4位に入った。一方、ロサンゼルス五輪の男子100mで決勝に進んだ吉岡隆徳(東京高師出)は2次予選で落選した。
このほか男子走高跳は矢田喜美雄(早大)が米国、フィンランドの4人とともに2m00に挑んだが1人だけ失敗。それでも1m97で5位入賞した。朝隈義郎(明大)、田中弘(早大)も1m94で6位入賞した。この種目の日本勢の入賞は3大会連続。女子の投てき陣も奮闘し、円盤投の中村コウ(北海高女)は38m24で4位、峯島秀(日女体専出)は37m35で5位になり、やり投では山本定子(中京高女教)が41m45で5位に入った。
1940年東京五輪開催決定
ベルリン五輪開幕を前に7月31日にドイツ・ベルリンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会で東京がフィンランドの首都ヘルシンキとの決選投票の末、36対27で1940年の第12回五輪の開催都市に選ばれた。東京市が1931年(昭和6年)に五輪招致を決議して以来の念願がかなった。8月10日、平沼亮三会長が国際陸連の総会で同陸連の副議長に選出された。12月には東京オリンピック組織委員会が設立された。
記事提供:月刊陸上競技
昭和2年4月~昭和12年3月
昭和に入り、日本は世界の陸上競技界で存在感を高め、黄金期へと突入していく。
1927年(昭和2年)10月9日、神宮大会近畿予選を兼ねた大阪選手権の女子100mで、人見絹枝(大阪毎日)が12秒4の世界タイをマークした。人見は1928年(昭和3年)5月20日には全日本選手権の走幅跳で5m98、100mで12秒2の世界新記録を出した。
1928年7月から8月にかけて開かれた第9回アムステルダム五輪には男子16、女子1の計17選手が参加。日本は4度目の五輪挑戦でついに大きな収穫を得る。男子三段跳で織田幹雄(早大)が15m21で優勝し、日本人最初の五輪金メダリストとなった。女子の日本人として初めて五輪に出場した人見は800mで銀メダルに輝いた。
織田は、競技第1日(7月29日)の走高跳は1m88で7位。第3日(7月31日)の走幅跳は7m11で決勝に残れず、入賞に届かずにいた。織田にとっては第5日(8月2日)の三段跳が上位を狙う最後のチャンスだった。競技は2組に分かれた予選の3回の試技で、記録上位6人が決勝に進出。さらに3回の跳躍の結果、予選も通じた最もいい記録によって順位が決まる方式。前日からの雨は上がったものの、助走路の状態は決して万全とは言えない条件で予選が始まった。世界陸連の記録によると、織田は1回目に15m02、2回目に15m13をマーク。3回目に15m21を出し、全体のトップで決勝に進んだ。別の組で跳んだ南部忠平(早大)は3回目の15m01で2位通過した。決勝で織田は4回目ファウル、5回目は14m30、最後の6回目もファウルと記録を伸ばせなかったが、4cm差で逃げ切り、頂点に立った。南部も決勝で記録を伸ばせず、メダルは逃したものの4位入賞した。

織田幹雄 ©フォート・キシモト
メインポールに翻った待望の日の丸は織田が持ち込んでいたもので、2位、3位の選手の国の旗と比べて格段に大きかった。国旗掲揚の際に流れた君が代は途中から始まり、途中で終わってしまったという。日本勢の優勝は大会側にとって予想外。慌ただしく準備されたということだろう。
人見の快挙も落胆の末に成し遂げられた。第2日(7月30日)の100mで上位が期待されながら準決勝で落選してしまう。最も得意とした走幅跳は実施種目になく、800mには一応エントリーしたものの走った経験は一度もない。だが、100mでメダルを逃した無念を晴らすために挑戦を決意した。第4日(8月1日)の予選を通過し、決勝は翌8月2日、男子三段跳の競技中に行われた。スタート後に先頭に立ったが後方に下がり、後半に勝負を懸けた。2周目に順位を上げ、最後の直線に入った段階で3番手。そこから無我夢中の走りで1人抜き、優勝したリナ・ラトケ(ドイツ)と2m差、2分17秒6で2位になった。フィニッシュ後、選手は疲労困憊で倒れ込み、女子選手に800mは過酷だとして五輪の実施種目から外れた。ようやく復活したのは1960年ローマ五輪だった。

人見絹枝 ©フォート・キシモト
他の日本勢も健闘し、男子マラソンで山田兼松(香川県坂出青年)が2時間35分29秒で4位、津田晴一郎(慶大)は2時間36分20秒で6位になった。走高跳の木村一夫(早大)は1m88で6位、棒高跳の中沢米太郎(東京高師)は3m90で6位に入っている。
全日本陸連がIAAF加盟
1928年8月7日、五輪に合わせてアムステルダムで開かれた国際陸上競技連盟(IAAF)総会で、全日本陸上競技連盟が大日本体育協会に代わる日本の統括団体として加盟が承認された。全日本陸連の名称は1945年(昭和20年)まで続いた。
東西に存在した大学の組織整備も進んだ。関東の大学を中心とした全国学生陸上競技連合と、関西の大学による大学専門学校陸上競技連盟が、協議の末に一本化することを1927年に決議。1928年に日本の学生陸上界を統括する団体として日本学生陸上競技連合が発足し、5月に東京・明治神宮競技場で第1回日本学生対校選手権(日本インターカレッジ)を開催した。この大会で織田幹雄(早大)は110mハードル、走幅跳、三段跳の3冠に輝いた。
1929年(昭和4年)には全日本陸連の役員をこれまでの理事長から「会長」「副会長」制に改め、平沼亮三会長が選任された。12月12日から競技場の公認、器具・器材の検定制度が始まった。
競技では5月19日、人見絹枝(大阪毎日)が全日本女子選手権(神宮)の200mで24秒7の世界新をマークした。
織田幹雄、南部忠平が世界新
1931年(昭和6年)10月27日、第6回神宮大会の第1日に行われた一般対学生対抗競技で2つの世界新記録が誕生した。男子三段跳で織田幹雄(浪速ク)が15m58、走幅跳で南部忠平(美津濃)が7m98をマークした。
織田の1回目は14m95。好調とは言えなかったが、気負わず跳んだ2回目にアンソニー・ウィンター(豪州)が1924年パリ五輪で樹立した世界記録(15m525)を示す旗のあたりに着地。ファウルだったが、実測15m51だったという。リラックスを意識した3回目に15m58。7年ぶりに世界記録を更新した。大島鎌吉(関大)も、この年の世界2位となる15m44をマークした。
南部はこの日、先に100mに出場。10秒5の日本新を樹立した吉岡隆徳に次いで、従来の日本記録と並ぶ10秒6で走っていた。走幅跳は三段跳の快記録の余韻が残る中でスタート。南部は好調を実感しながら跳躍に挑み、7m98。シルビオ・カトール(ハイチ)が1928年に出した7m93を塗り替えた。この種目の日本記録は織田が7度更新し、アムステルダム五輪翌年の1929年に南部が7m41を跳んで日本記録保持者となっていた。その後も記録を伸ばし、走幅跳は南部、三段跳は織田と専門種目を分け合うかたちで日本をリードしてきた。こうして2人がつかんだ世界記録保持者の称号だった。
人見絹枝が24歳の短い生涯を終えたのも1931年。アムステルダム五輪の800mで2位になった日と同じ8月2日のことだった。
ロサンゼルス五輪で躍進
三段跳・南部忠平が金、棒高跳・西田修平は銀、吉岡隆徳決勝へ
1932年(昭和7年)。第10回ロサンゼルス五輪で日本はさらに飛躍を遂げる。初めて選手村が設けられた大会。米国から遠く離れた欧州勢が参加を見合わせるケースが目立ったとはいえ、男子26、女子9の計35選手を派遣した日本は大きな存在感を示した。男子三段跳は南部忠平(早大OB)が15m72の世界新記録で金メダルに輝き、日本勢がこの種目2連覇。男子棒高跳は西田修平(早大)が2位に入った。男子100mは吉岡隆徳(東京高師)が決勝に進出し、6位入賞を果たした。
南部は競技第3日(8月2日)、まずは世界記録を持つ走幅跳に挑んだ。金メダルを期待されたが腰の痛みで本調子ではなく、1回目の7m45からは伸ばせず、銅メダルだった。田島直人(山口高OB)が7m15で6位に入賞した。三段跳が行われたのは第5日(8月4日)。ここでの本命は世界記録保持者の織田幹雄(大阪朝日)だったが、膝と足首を痛めており、本領を発揮できないまま13m97の12位にとどまった。南部は三段跳の練習をほとんどしておらず、助走距離を縮めて1回目は15m07、2回目は14m67。3回目に15m22を跳び、2番手で4回目以降に臨むことになった。4回目は14m89。5回目に跳躍が見事にはまり、15m72の世界新記録をマークして優勝を果たした。6回目は14m85。大会直前に風呂場でやけどを負っていた大島鎌吉(関大)が15m12で3位に入り、2つの日の丸が掲揚された。
棒高跳の西田は第4日(8月3日)、大飛躍を展開した。前日の練習中に脚を痛めていたが、地元米国勢を相手に堂々とした戦いぶり。4m20の日本新をマークすると4m25は3回目に成功。これで2位以上が決まった。4m30はビル・ミラーが1回でクリア。西田は3回目に成功し、食い下がったが4m35は3回とも失敗。ミラーが3回目に跳んで優勝し、西田は銀メダルを得た。望月倭夫(東京高師)は4m00で6位になった。
陸上の花、男子100mの吉岡は第1日(7月31日)の1次予選を10秒9で7組1着、2次予選は10秒8の3組2着で通過した。翌8月1日の準決勝は10秒8の1組3着で突破。決勝は白鉢巻姿で得意のスタートダッシュを決め、30mでは大きくリードを奪った。だが、60mあたりから追い上げられ、70mあたりでエディ・トーラン、ラルフ・メトカーフ(ともに米国)に抜かれると、その後も順位を落とした。それでも10秒8の6位。日本短距離初の入賞を果たした。抜群のスタートダッシュは「暁の超特急」の名で伝説となっている。
女子やり投の真保正子(大阪泉尾高女教員)は39m08の日本新で4位に健闘。男子走高跳は織田が棄権したものの、木村一夫(早大)が1m90で2大会連続の6位になった。男子マラソンは津田晴一郎(慶大OB)が5位、日本が統治していた朝鮮半島出身の金恩培(養正高普)が6位。リレーでも健闘し、吉岡、南部、阿武巌夫、中島亥太郎の4×100mリレー、中島、増田磯、大木正幹、西貞一の4×400mリレー、村岡美枝、中西みち、土倉麻、渡辺すみ子の4×100mリレーはいずれも5位に入った。
1932年1月には全日本陸連の功労章、勲功章、世界記録樹立章、顧問制度が設けられ、1933年(昭和8年)11月2日、陸連内に12の専門委員会が設置された。
1934年(昭和9年)、9月に米国チームが来日。東京と大阪で日米対抗を開催した。大島謙吉(浪速ク)が三段跳で15m82、原田正夫(京大)が15m75を跳び、世界記録を上回ったが、公認されなかった。ラルフ・メトカーフが男子100mで10秒3の世界タイを出した。
1935年(昭和10年)は4月3日、オリンピック候補対抗の男子マラソンで池中康雄(東洋大)が2時間26分44秒の世界最高。6月15日には日本・フィリピン対抗で吉岡隆徳が10秒3の世界タイをマークした。11月1~3日の全日本選手権ではマラソンで孫基禎(養正高普)が世界最高を2時間26分42秒に塗り替えた。
ベルリン五輪で歴史的活躍
男子三段跳3連覇、金メダル2、銀2、銅3
1936年(昭和11年)8月、第11回ベルリン五輪が開催された。4年前のロサンゼルス五輪で大躍進した日本は男子40、女子7の計47選手が参加。男子三段跳で田島直人(三井鉱山)が金メダルに輝き、この種目の日本勢3連覇を達成するなど、金2、銀2、銅3のメダルを獲得する歴史的な成果を上げた。男子マラソンでは日本の統治下にあった朝鮮半島出身の孫基禎(養正高普)が金メダル。男子棒高跳では西田修平(早大ク)が2位、大江季雄(慶大)が3位になり、跳躍種目での日本の名声は一層高まった。2人は同記録ながら試技数の差で順位がつき、それぞれのメダルを半分に割ってつないだ「友情のメダル」は後世に語り継がれる。

田島直人 ©フォート・キシモト
男子三段跳は競技第5日(8月6日)に行われた。田島は1回目に南部が前回五輪で出した15m72の五輪記録を塗り替える15m76でトップに立った。2回目はファウル。3回目は15m44。16m00を跳んだのは4回目。世界陸連の資料によるとホップ6m20、ステップ4m80、ジャンプ5m00として、史上初の16mジャンパーとなった。原田正夫(日立)が6回目に15m66を跳んで銀メダルを獲得し、日本はワン・ツーの快挙も達成した。大島謙吉(大阪毎日)は15m07で6位入賞した。
田島は8月4日の走幅跳でも7m74で銅メダルを手にした。4位とは1cm差だった。優勝は8m06のジェシー・オーエンス(米国)。オーエンスは100m、200m、4×100mリレーを合わせた史上初の4冠に輝く活躍だった。
競技最終日の8月9日に男子マラソンは行われた。56人が参加。序盤は前回優勝のフアン・サバラ(アルゼンチン)がリードし、中盤には孫とアーニー・ハーパー(英国)が追う展開。28㎞でサバラのペースが鈍り、孫がスピードを上げて抜こうとしたが、ハーパーが手で制する場面も。それでも30㎞過ぎにトップに立つと、リズムを保ち、フィニッシュテープを切った。2時間29分12秒2。同じく朝鮮半島出身の南昇竜(明大)がハーパーに次いで2時間31分42秒0で銅メダルを獲得した。
第4日(8月5日)の男子棒高跳は予想通り日米の激突となった。4m00を16人が越え、強い雨のため競技は一時中断。4m15から競技は再開され、西田、大江は1回でクリアした。4m25は日本の2人とアール・メドウズ、ウィリアム・セフトン(ともに米国)が成功した。4m35の五輪新はメドウズだけが成功し、金メダル。失敗した3人は4m15のジャンプオフでセフトンが脱落。西田と大江はこれ以上の順位決定はせず、公式記録は試技数の差で西田が2位、大江が3位となった。友情のメダルの物語は、世界陸連の五輪記録集でも「友情の証として、彼らはメダルを二つに切り分け、溶接でつなぎ合わせた」と紹介されている。安達清(早大)は4m00で6位に入った。
メダルには届かなかったが、トラックでの村社講平(中大)の健闘も注目を集めた。第1日(8月2日)の男子10000mで強豪フィンランドの3選手に立ち向かい、序盤から積極的に前でレースを進めた。ラスト1周で抜かれて表彰台に届かず、30分25秒0の日本新を出しながらも4位。それでも小柄な日本選手が大男のフィンランド勢としのぎを削る姿に「ムラコソ、ムラコソ」の大声援が送られた。第6日(8月7日)の5000m決勝でも14分30秒0の日本新で再び4位に入った。一方、ロサンゼルス五輪の男子100mで決勝に進んだ吉岡隆徳(東京高師出)は2次予選で落選した。
このほか男子走高跳は矢田喜美雄(早大)が米国、フィンランドの4人とともに2m00に挑んだが1人だけ失敗。それでも1m97で5位入賞した。朝隈義郎(明大)、田中弘(早大)も1m94で6位入賞した。この種目の日本勢の入賞は3大会連続。女子の投てき陣も奮闘し、円盤投の中村コウ(北海高女)は38m24で4位、峯島秀(日女体専出)は37m35で5位になり、やり投では山本定子(中京高女教)が41m45で5位に入った。
1940年東京五輪開催決定
ベルリン五輪開幕を前に7月31日にドイツ・ベルリンで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会で東京がフィンランドの首都ヘルシンキとの決選投票の末、36対27で1940年の第12回五輪の開催都市に選ばれた。東京市が1931年(昭和6年)に五輪招致を決議して以来の念願がかなった。8月10日、平沼亮三会長が国際陸連の総会で同陸連の副議長に選出された。12月には東京オリンピック組織委員会が設立された。
記事提供:月刊陸上競技


