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HISTORY歴史歴史の説明を掲載します。

日本陸上競技連盟史

草創期:~1926年度以前

1870年代~1926年度
明治初期~大正時代

「運動会」から「陸上競技」へ
日本陸連の歴史始まる 

 日本の近代的な陸上競技の起源は1874年(明治7年)321日、東京・築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で行われた「競闘遊戯(きそひあそび)」にさかのぼる。「競闘標目」と記されたプログラムには「雀雛出巣(すずめのすだち=150ヤード走)」「大鯔跋扈(ぼらのあみこえ=走高跳)」「文鰩閃浪(とびうおのなみきり=走幅跳)」のほか、「乳猿避猟(こもちざるのたちのき=おんぶ競争)」なども並び、後の「運動会」の原型ともなった。

 1878年(明治11年)には札幌農学校(現・北海道大)で米国人教師の指導による運動会が開かれ、1883年(明治16年)616日には東京帝国大(現東大)で第1回運動会が開催された。これは英国人教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によるもので、日本の高等教育機関に陸上競技が広まるきっかけとなった。1902年(明治35年)に行われた東大の運動会の100mでは、藤井実が特殊な電気計時による計測で1024をマーク。1906年(明治39年)には棒高跳で390を記録した。この時は国際陸上競技連盟(1912年に設立)がなく、公認記録もなかったが、当時の世界記録とされた記録(100m=108、棒高跳=374)をともに上回っている。

五輪への挑戦スタート


三島弥彦 ©フォート・キシモト

 1909年(明治42年)、講道館柔道の創始者で東京高等師範学校(現・筑波大)校長だった嘉納治五郎が国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任。日本の五輪参加への道が開かれた。スウェーデン・オリンピック委員会の求めに応じて、1912年の第5回ストックホルム五輪に日本選手を派遣する準備に着手。1911年(明治44年)には大日本体育協会(後の日本体育協会、現日本スポーツ協会)が設立され、111819日に東京・羽田で五輪予選会が実施された。陸上競技のみ13種目が行われ、91人が参加。東大の三島弥彦が100m、200m、400mで優勝。マラソンで東京高師の金栗四三が当時の世界記録より27分も速い2時間3245秒で勝った。

 1912年(明治45年)、5月から7月にかけて開かれたストックホルム五輪に日本はアジアの国として初参加し、三島弥彦と金栗四三が世界に挑んだ。三島は100m、200mとも予選落ち。400mは予選を通過したものの、右足首を痛めて準決勝を棄権した。マラソンの金栗は途中棄権に終わっている。成績は振るわなかったが、国際スポーツの舞台で最初の一歩を刻んだ。

日本選手権開始、競技会広がる

 1913年(大正2年)1112日、大日本体協が「第1回全国陸上競技大会」を開催した。日本選手権の始まりである。東京・新宿区に新設された1270mの陸軍戸山運動場が舞台。選手はほぼ学生で、28校から360人が参加した。当初は男子のみの大会で、女子は1924年(大正13年)の12回大会から参加した。 

 1916年(大正5年)は第1次世界大戦のため、第6回ベルリン五輪が中止に追い込まれたが、国内の競技会の機運は高まり、1917年(大正6年)には京都から東京までの「東海道駅伝徒歩競争」が行われ、駅伝の歴史も始まった。427日から3日間にわたり、東京高師の学生らが中心の「関東組」と、主に愛知一中(現愛知・旭丘高)の生徒による「関西組」が京都の三条大橋から東京・上野不忍池までの23区間、508㎞でたすきをつなぎ、金栗四三がアンカーを務めた関東組が勝った。

 この大会の成功を受け、金栗らの尽力によって1920年(大正9年)21415日に東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)の第1回大会が開催された。この時の大会名は「四大校駅伝競走」で早大、慶大、明大、東京高師が出場。東京高師が初代王者となった。

 1919年(大正8年)には関東の大学を中心とした全国学生陸上競技連合が組織され、41920日に東大運動場で第1回全国大学専門学校連合競技会を開催した。1921年(大正10年)には関西の大学によって大学専門学校陸上競技連盟が発足し、東西で活動が始まった。

 1923年(大正12年)には現在の全国高校総体(インターハイ)につながる旧制中学の全国大会「インターミドル」が始まった。翌年の11月には新設の明治神宮外苑競技場で、第1回明治神宮大会が行われた。

パリ五輪で初入賞

 五輪への挑戦は続き、1920年(大正9年)の第7回アントワープ五輪には男子12選手が派遣された。だがマラソンで金栗四三が16位となるなど、再び世界とのレベル差に跳ね返された。

 1924年(大正13年)の第8回パリ五輪には男子8選手が派遣され、三段跳で織田幹雄(広島高師)が14356位になり、日本の陸上選手初の入賞を果たした。5000mでは東大OBの岡崎勝男が予選を通過(決勝は途中棄権)。マラソンの金栗四三は途中棄権したものの、まったく歯が立たなかった過去2大会と比べて日本は成長した姿を披露した。

全日本陸上競技連盟が創立

 1924年、パリ五輪の際に開かれた国際陸上競技連盟(IAAF)総会で、大日本体協の加盟が認可されると、1925年(大正14年)には日本陸上競技連盟の歴史がスタートした。2月に全国の関係団体の代表者が集まり、「全日本陸上競技連盟」の事業の大綱、規約を定めた後、38日に設立総会を開催して平沼亮三理事長を始めとするその他の役員を決定。こうして国内の統括団体として活動を開始した。418日に明治神宮外苑競技場で発会式を行った。

記事提供:月刊陸上競技