日本陸上競技連盟史
戦時期:1937年度~1945年度
1937年度~1945年度
昭和12年4月~昭和21年3月
1940年東京五輪返上、苦難の時代に
1940年東京五輪開催が決まり、準備を加速させようとした日本だが、1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件から日中戦争が勃発。苦難の時代へと突入していく。この年、8月28日から9月12日に東京五輪に向けた準備事業として、明治神宮と甲子園で2度目の日米対抗を開催。米国からはベルリン五輪の棒高跳で日本勢としのぎを削ったアール・メドウズ、ウィリアム・セフトンが来日したが、国際情勢の悪化は東京五輪開催に影響を及ぼす状況になっていた。
7月末に馬術代表7人を決めた陸軍が8月25日になって五輪に向けた準備の中止を発表した。9月には政友会の代議士、河野一郎氏(後の日本陸連会長)が衆院予算委員会で東京五輪中止を唱えて近衛文麿首相、杉山元陸相に質問。河野氏の大会中止を巡る質問は3月の予算委員会に続いて2度目だった。政府は「関係者と協議する」と返答したが、翌日の新聞に内閣書記官、風見章氏の談話として「東京オリンピック開催は困難」と報じられ、国内は大騒ぎになった。風見氏は誤報と釈明し、組織委員会と東京市は「予定通りオリンピックを開催する」ことを確認したものの、中止に向けた流れが加速しつつあった。
1938年(昭和13年)を迎えても日中戦争は収まる気配がなく、海外でも日本での五輪開催に異を唱える論調が高まった。3月に衆院国家総動員法案委員会で、再び河野氏が五輪中止に関して質問。杉山陸相は戦争が継続する中の大会開催に否定的な見解を示した一方、「2年後のことはわからないから分相応の準備は差し支えなし」と答弁した。
大会準備を継続する方向は変わらなかったものの、大日本体育協会創設者、嘉納治五郎名誉会長が5月4日、太平洋上を航行中の氷川丸船中で、急性肺炎のため77歳で死去した。スポーツ界は日本の五輪運動の象徴的な存在を失う。嘉納氏は3月10日から18日までエジプトのカイロで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席。東京五輪の開催に反対する国々を相手に、アジア初の五輪開催の意義を訴えていた。その後、前年9月に亡くなったピエール・ド・クーベルタンIOC名誉会長の慰霊祭参列のためギリシャに向かい、米国経由で帰国する途中での訃報だった。
競技場建設に必要な鉄鋼が不足して準備は進まず、7月に入ると鋼鉄と羊毛が戦時重要物質として消費制限されるなど、物資統制の厳しさが増した。こうした状況下、7月14日に東京五輪を所管する厚生省が大会中止を決定。15日に政府は東京五輪の返上を閣議決定した。16日には大会組織委員会が政府勧告を承認し、返上を決定。アジア初の五輪は幻となった。同じ40年開催予定だった札幌での冬季五輪の中止も決まり、IOCのアンリ・ド・バイエ・ラトゥール会長宛に東京、札幌五輪を中止し、44年に行いたい旨を通告した。これを受け、全日本陸連は強化策として第1、第2候補、コーチ陣を指名していたのを解散した。秋に予定していた男子の日独対抗、女子の日伊対抗も中止とした。
代替地ヘルシンキも五輪開催断念、太平洋戦争突入
1940年五輪の東京開催は消えたものの、IOCの開催打診を受け入れたフィンランド・ヘルシンキで大会は開かれることになり、これに備えて選手の強化は継続された。7月24、25日に満州・新京で満州国との対抗戦が実施され、日本側は金源権が走幅跳で7m54、三段跳で15m43の好記録をマークした。10月8、9日に全日本東西対抗、女子の三部対抗が開催された。
1938年は隔年開催となっていた神宮大会が行われない年だったため、全日本陸連は三重・宇治山田(伊勢神宮)から東京(明治神宮)までの520kmを走る「聖矛リレー」を計画した。戦勝を祈願し、伊勢神宮の神火の代わりに矛(ほこ)を手に走ろうというもの。正選士1人、副選士2人、衛団20人が一団となって約4kmの区間を走り、リレーしていく形式だった。11月4日正午に伊勢神宮内宮の宇治橋を出発し、6日午後5時、国民精神作興体育大会の閉会式場でベルリン五輪マラソン優勝の孫基禎から最終走者の金栗四三に矛を手渡し、午後5時20分に明治神宮に到着して平沼亮三会長の手から矛を奉納して終了した。参加者は計1万5000人。この継走は戦後の国民体育大会における炬火(きょか)リレーの原型になった。
前年の日米対抗の開催費用が莫大な赤字となり、全日本陸連の財政が悪化。12月に措置を平沼亮三会長に一任された。1939年(昭和14年)、2月19日には平沼会長が専務理事を設け、財団法人化する財政改革案を代議員会に提出し、可決された。専務理事には野口源三郎氏が就任した。
7月から8月にかけて棒高跳2人、三段跳1人、短距離1人、マネジャー1人を招待したいとの申し入れがドイツからあったのを受け、ウィーンで8月に開催される国際学生競技大会に参加を予定していた学連と共同で選手を派遣することになり、5月の選考会を経て三段跳の金源権ら10選手が選ばれた。
大島謙吉監督らの一行はベルリン、シュツットガルトなどドイツを転戦。8月24日からは国際学生大会に出場していたが、ドイツとポーランドの国交断絶により、大会2日目で引き揚げることになった。ドイツは9月1日にポーランドに侵攻。2日後に英国とフランスがドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まった。
同じ時期、6月にIAAFに加盟を認められた満州国の体育連盟が主催した日満華対抗が9月1~3日に満州・新京で行われ、日本が満州、華北を抑えて優勝した。9月5、6日には満州・奉天でも開かれた。だが、戦火は世界全土に広がり、10月31日~11月3日の第10回神宮体育大会兼第26回日本選手権は厚生省の主催となり、明治神宮国民体育大会と改称され、種目は国防種目に移行させられていった。
フィンランドも戦雲に巻き込まれた。11月にソ連から侵攻され、1940年(昭和15年)4月20日、ヘルシンキ市は五輪の開催放棄を表明。5月6日にはベルギー・ブリュッセルで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、第12回オリンピックの開催自体を断念し、中止とすることが決まった。
この年6月、五輪に代わる紀元2600年を記念する奉祝行事として東亜競技大会が開催された。フィリピン、満州、華北の選手を迎え、5日から9日までは東京、13日から16日には大阪で実施。東京では100mの吉岡隆徳、5000mの村社講平、走幅跳、三段跳の原田正夫らが優勝した。10月27日から11月6日には厚生省主催の紀元2600年奉祝第11回神宮大会兼全日本選手権が開催された。
1941(昭和16)年2月には神宮大会と全日本選手権を分離して開催することが決まった。3月22日には東京・お茶の水に岸記念体育会館が完成し、全日本陸連は丸ノ内仲通6号館から移転した。7月13日には厚生、文部両大臣名で明治神宮大会を除き、全国的運動行事を一切中止する訓令が発令された。7月17日~19日の第28回全日本選手権(中モズ)、9月21日~22日の第14回日本学生対校選手権(日本インカレ=神宮)などが中止となった。10月31日~11月3日の第12回神宮大会では陸上競技は「陸上戦技」となり、ユニフォーム、スパイク姿から国防服、巻脚絆姿へと変わった。
12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により、太平洋戦争に突入した。
全日本陸連の名、消える
1942年(昭和17年)、3月21日~23日に伊勢神宮~東京二重橋間で戦勝祈願駅伝競走が行われ、西軍が30時間24分02秒で勝った。4月8日には大日本体育協会が厚生省所管の大日本体育会となる。全日本陸上競技連盟は設立から20年足らずでその歴史が中断する状況に追い込まれ、大日本体育会陸上戦技部に組み込まれた。日本学生陸上競技連合は、文部省内に新設された大日本学徒体育振興会に吸収された。7月21、22日には終戦前では最後の第29回全日本選手権が大阪・中モズで開催された。神宮大会は10月29日~11月3日の第13回大会から明治神宮国民錬成大会と改称された。
1943(昭和18)年1月5、6日の第22回箱根駅伝は靖国神社、箱根神社往復関東学徒鍛錬継走大会となった。5月9日に明治神宮外苑競技場で行われた第21回早慶対抗を最後に陸上競技会は姿を消した。
戦局は悪化し、9月24日には学徒体育大会が一切禁止となり、10月1日に「在学徴集延期臨時特例」が公布された。学生に認められていた徴兵の猶予がなくなり、10月21日、降りしきる雨の中、かつて選手が躍動した明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。この年の第14回明治神宮国民練兵大会は地方予選のみの開催となり、大会の幕を下ろした。
1944(昭和19)年、大日本体育会は賞品として出されたカップ、トロフィーの供出活動の音頭を取ったが戦局は好転することなく、1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終結した。1940年に東京で五輪が開催されれば脚光を浴びたはずの多くのアスリートの運命は、戦争によって変わってしまった。ベルリン五輪棒高跳で表彰台に立った大江季雄は1941年12月24日、27歳で戦死。同じベルリン大会100m出場の鈴木聞多、200mの谷口睦生、マラソンの鈴木房重も戦地で散った。ロサンゼルス五輪短距離代表の阿武厳夫、ハンマー投の落合正義、やり投の長尾三郎、アムステルダム五輪200mの相沢巌夫を含め、計8人のオリンピアンが第2次世界大戦で戦死している。
日本陸上競技連盟復活
敗戦で日本は米国など連合国の占領下に置かれ、競技場など体育施設は進駐軍に接収された。明治神宮外苑競技場は「ナイルキニック・スタジアム」と改称された。
こうした中、陸連再建に向けた動きが始まる。1945年11月6日、平沼亮三氏の呼びかけで東京・銀座の交詢社に有志の陸上関係者55人が集まり、石田啓次郎氏ら16人による陸連再建準備委員会が設立された。11月12日、19日には準備会の会合を持った。
12月9日、陸連の再建総会が岸記念体育館で59人が参加して開催された。会議では1929(昭和4)年の陸連規約を基本とした仮規約によって組織化し、役員組織は翌年3月までの事務処理機関として在京者に常務理事を委嘱。会長1、理事8、秘書1とし、地方選出は新年度からとすることとした。会長は平沼亮三、常務理事は石田啓次郎、中西進、織田幹雄、川本信正、川崎秀二、鈴木武、三藤正、加藤橘夫、塚本舗之助、秘書は森田重利に決定。「日本陸上競技連盟」と称することを決めた。英文表記は「Japan Amateur Athletic Federation」。同日、復活競技会を東大運動場で開催した。
記事提供:月刊陸上競技
昭和12年4月~昭和21年3月
1940年東京五輪返上、苦難の時代に
1940年東京五輪開催が決まり、準備を加速させようとした日本だが、1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件から日中戦争が勃発。苦難の時代へと突入していく。この年、8月28日から9月12日に東京五輪に向けた準備事業として、明治神宮と甲子園で2度目の日米対抗を開催。米国からはベルリン五輪の棒高跳で日本勢としのぎを削ったアール・メドウズ、ウィリアム・セフトンが来日したが、国際情勢の悪化は東京五輪開催に影響を及ぼす状況になっていた。
7月末に馬術代表7人を決めた陸軍が8月25日になって五輪に向けた準備の中止を発表した。9月には政友会の代議士、河野一郎氏(後の日本陸連会長)が衆院予算委員会で東京五輪中止を唱えて近衛文麿首相、杉山元陸相に質問。河野氏の大会中止を巡る質問は3月の予算委員会に続いて2度目だった。政府は「関係者と協議する」と返答したが、翌日の新聞に内閣書記官、風見章氏の談話として「東京オリンピック開催は困難」と報じられ、国内は大騒ぎになった。風見氏は誤報と釈明し、組織委員会と東京市は「予定通りオリンピックを開催する」ことを確認したものの、中止に向けた流れが加速しつつあった。
1938年(昭和13年)を迎えても日中戦争は収まる気配がなく、海外でも日本での五輪開催に異を唱える論調が高まった。3月に衆院国家総動員法案委員会で、再び河野氏が五輪中止に関して質問。杉山陸相は戦争が継続する中の大会開催に否定的な見解を示した一方、「2年後のことはわからないから分相応の準備は差し支えなし」と答弁した。
大会準備を継続する方向は変わらなかったものの、大日本体育協会創設者、嘉納治五郎名誉会長が5月4日、太平洋上を航行中の氷川丸船中で、急性肺炎のため77歳で死去した。スポーツ界は日本の五輪運動の象徴的な存在を失う。嘉納氏は3月10日から18日までエジプトのカイロで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席。東京五輪の開催に反対する国々を相手に、アジア初の五輪開催の意義を訴えていた。その後、前年9月に亡くなったピエール・ド・クーベルタンIOC名誉会長の慰霊祭参列のためギリシャに向かい、米国経由で帰国する途中での訃報だった。
競技場建設に必要な鉄鋼が不足して準備は進まず、7月に入ると鋼鉄と羊毛が戦時重要物質として消費制限されるなど、物資統制の厳しさが増した。こうした状況下、7月14日に東京五輪を所管する厚生省が大会中止を決定。15日に政府は東京五輪の返上を閣議決定した。16日には大会組織委員会が政府勧告を承認し、返上を決定。アジア初の五輪は幻となった。同じ40年開催予定だった札幌での冬季五輪の中止も決まり、IOCのアンリ・ド・バイエ・ラトゥール会長宛に東京、札幌五輪を中止し、44年に行いたい旨を通告した。これを受け、全日本陸連は強化策として第1、第2候補、コーチ陣を指名していたのを解散した。秋に予定していた男子の日独対抗、女子の日伊対抗も中止とした。
代替地ヘルシンキも五輪開催断念、太平洋戦争突入
1940年五輪の東京開催は消えたものの、IOCの開催打診を受け入れたフィンランド・ヘルシンキで大会は開かれることになり、これに備えて選手の強化は継続された。7月24、25日に満州・新京で満州国との対抗戦が実施され、日本側は金源権が走幅跳で7m54、三段跳で15m43の好記録をマークした。10月8、9日に全日本東西対抗、女子の三部対抗が開催された。
1938年は隔年開催となっていた神宮大会が行われない年だったため、全日本陸連は三重・宇治山田(伊勢神宮)から東京(明治神宮)までの520kmを走る「聖矛リレー」を計画した。戦勝を祈願し、伊勢神宮の神火の代わりに矛(ほこ)を手に走ろうというもの。正選士1人、副選士2人、衛団20人が一団となって約4kmの区間を走り、リレーしていく形式だった。11月4日正午に伊勢神宮内宮の宇治橋を出発し、6日午後5時、国民精神作興体育大会の閉会式場でベルリン五輪マラソン優勝の孫基禎から最終走者の金栗四三に矛を手渡し、午後5時20分に明治神宮に到着して平沼亮三会長の手から矛を奉納して終了した。参加者は計1万5000人。この継走は戦後の国民体育大会における炬火(きょか)リレーの原型になった。
前年の日米対抗の開催費用が莫大な赤字となり、全日本陸連の財政が悪化。12月に措置を平沼亮三会長に一任された。1939年(昭和14年)、2月19日には平沼会長が専務理事を設け、財団法人化する財政改革案を代議員会に提出し、可決された。専務理事には野口源三郎氏が就任した。
7月から8月にかけて棒高跳2人、三段跳1人、短距離1人、マネジャー1人を招待したいとの申し入れがドイツからあったのを受け、ウィーンで8月に開催される国際学生競技大会に参加を予定していた学連と共同で選手を派遣することになり、5月の選考会を経て三段跳の金源権ら10選手が選ばれた。
大島謙吉監督らの一行はベルリン、シュツットガルトなどドイツを転戦。8月24日からは国際学生大会に出場していたが、ドイツとポーランドの国交断絶により、大会2日目で引き揚げることになった。ドイツは9月1日にポーランドに侵攻。2日後に英国とフランスがドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まった。
同じ時期、6月にIAAFに加盟を認められた満州国の体育連盟が主催した日満華対抗が9月1~3日に満州・新京で行われ、日本が満州、華北を抑えて優勝した。9月5、6日には満州・奉天でも開かれた。だが、戦火は世界全土に広がり、10月31日~11月3日の第10回神宮体育大会兼第26回日本選手権は厚生省の主催となり、明治神宮国民体育大会と改称され、種目は国防種目に移行させられていった。
フィンランドも戦雲に巻き込まれた。11月にソ連から侵攻され、1940年(昭和15年)4月20日、ヘルシンキ市は五輪の開催放棄を表明。5月6日にはベルギー・ブリュッセルで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、第12回オリンピックの開催自体を断念し、中止とすることが決まった。
この年6月、五輪に代わる紀元2600年を記念する奉祝行事として東亜競技大会が開催された。フィリピン、満州、華北の選手を迎え、5日から9日までは東京、13日から16日には大阪で実施。東京では100mの吉岡隆徳、5000mの村社講平、走幅跳、三段跳の原田正夫らが優勝した。10月27日から11月6日には厚生省主催の紀元2600年奉祝第11回神宮大会兼全日本選手権が開催された。

吉岡隆徳 ©フォート・キシモト

村社講平 ©フォート・キシモト
1941(昭和16)年2月には神宮大会と全日本選手権を分離して開催することが決まった。3月22日には東京・お茶の水に岸記念体育会館が完成し、全日本陸連は丸ノ内仲通6号館から移転した。7月13日には厚生、文部両大臣名で明治神宮大会を除き、全国的運動行事を一切中止する訓令が発令された。7月17日~19日の第28回全日本選手権(中モズ)、9月21日~22日の第14回日本学生対校選手権(日本インカレ=神宮)などが中止となった。10月31日~11月3日の第12回神宮大会では陸上競技は「陸上戦技」となり、ユニフォーム、スパイク姿から国防服、巻脚絆姿へと変わった。
12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により、太平洋戦争に突入した。
全日本陸連の名、消える
1942年(昭和17年)、3月21日~23日に伊勢神宮~東京二重橋間で戦勝祈願駅伝競走が行われ、西軍が30時間24分02秒で勝った。4月8日には大日本体育協会が厚生省所管の大日本体育会となる。全日本陸上競技連盟は設立から20年足らずでその歴史が中断する状況に追い込まれ、大日本体育会陸上戦技部に組み込まれた。日本学生陸上競技連合は、文部省内に新設された大日本学徒体育振興会に吸収された。7月21、22日には終戦前では最後の第29回全日本選手権が大阪・中モズで開催された。神宮大会は10月29日~11月3日の第13回大会から明治神宮国民錬成大会と改称された。
1943(昭和18)年1月5、6日の第22回箱根駅伝は靖国神社、箱根神社往復関東学徒鍛錬継走大会となった。5月9日に明治神宮外苑競技場で行われた第21回早慶対抗を最後に陸上競技会は姿を消した。
戦局は悪化し、9月24日には学徒体育大会が一切禁止となり、10月1日に「在学徴集延期臨時特例」が公布された。学生に認められていた徴兵の猶予がなくなり、10月21日、降りしきる雨の中、かつて選手が躍動した明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。この年の第14回明治神宮国民練兵大会は地方予選のみの開催となり、大会の幕を下ろした。
1944(昭和19)年、大日本体育会は賞品として出されたカップ、トロフィーの供出活動の音頭を取ったが戦局は好転することなく、1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争は終結した。1940年に東京で五輪が開催されれば脚光を浴びたはずの多くのアスリートの運命は、戦争によって変わってしまった。ベルリン五輪棒高跳で表彰台に立った大江季雄は1941年12月24日、27歳で戦死。同じベルリン大会100m出場の鈴木聞多、200mの谷口睦生、マラソンの鈴木房重も戦地で散った。ロサンゼルス五輪短距離代表の阿武厳夫、ハンマー投の落合正義、やり投の長尾三郎、アムステルダム五輪200mの相沢巌夫を含め、計8人のオリンピアンが第2次世界大戦で戦死している。
日本陸上競技連盟復活
敗戦で日本は米国など連合国の占領下に置かれ、競技場など体育施設は進駐軍に接収された。明治神宮外苑競技場は「ナイルキニック・スタジアム」と改称された。
こうした中、陸連再建に向けた動きが始まる。1945年11月6日、平沼亮三氏の呼びかけで東京・銀座の交詢社に有志の陸上関係者55人が集まり、石田啓次郎氏ら16人による陸連再建準備委員会が設立された。11月12日、19日には準備会の会合を持った。
12月9日、陸連の再建総会が岸記念体育館で59人が参加して開催された。会議では1929(昭和4)年の陸連規約を基本とした仮規約によって組織化し、役員組織は翌年3月までの事務処理機関として在京者に常務理事を委嘱。会長1、理事8、秘書1とし、地方選出は新年度からとすることとした。会長は平沼亮三、常務理事は石田啓次郎、中西進、織田幹雄、川本信正、川崎秀二、鈴木武、三藤正、加藤橘夫、塚本舗之助、秘書は森田重利に決定。「日本陸上競技連盟」と称することを決めた。英文表記は「Japan Amateur Athletic Federation」。同日、復活競技会を東大運動場で開催した。

平沼亮三 初代会長
©フォート・キシモト
記事提供:月刊陸上競技


