日本陸上競技連盟史
復活期:1951年度~1956年度
1951年度~1956年度
昭和26年4月~昭和32年3月
第1回アジア大会、20種目で優勝
ボストン・マラソンで田中茂樹が初制覇
1951(昭和26)年、3月4~11日にインド・ニューデリーで第1回アジア競技大会が開催された。大会は日本、中国、フィリピンなどが参加して戦前に10度開催された極東選手権と、1度だけ開催された西アジア競技大会を併合するかたちで誕生。大会創設に関してはインドが主導的な役割を果たした。1948年ロンドン五輪開催中に、インドの国際オリンピック委員会(IOC)委員、ソンディ氏の提案で五輪に参加していたアジア諸国の代表が集まり、アジア独自の総合大会を創設することで合意。第1回大会を1950年秋にニューデリーで開催し、以降はオリンピックの中間年に4年に1度実施することになった。1949年12月には大会を開くための組織として、アジア競技連盟(AGF)が設立されたが、大会で使用する器具の調達などが大幅に遅れ、開催は1951年3月にずれ込んだ。
占領下にあった日本には1950年2月に連合国軍総司令部(GHQ)を通じて招待状が届いた。日本の出場には戦争で対日感情が悪化していたフィリピンが否定的な姿勢を示していたが、日本体協はGHQ、文部省の協力を得ながら参加の準備を始めた。同年7月のAGF総会で、日本の国内競技団体が国際競技連盟に加盟を認められればアジア大会に参加可能との決議がなされ、日本陸連などの国際復帰が進む中、参加の道が開かれた。
陸上は8日から最終日の11日まで行われ、日本からは織田幹雄監督、西田修平、児島文の両助監督以下、男女31選手(男子24、女子7)が参加。男子は24種目中11種目で優勝し、女子は吉野トヨ子(甲府二高教)が砲丸投で11m90、円盤投で42m10、やり投で36m23をマークして3冠に輝くなど、9種目すべてで優勝する大活躍だった。全競技を通じた日本の優勝数は24。そのうち、陸上が20を占めた。
男子は岡野栄太郎(中大)が400mを50秒7、400mハードルは54秒2の日本タイで2種目制覇を果たし、10000mでは田茂井宗一(鐘紡)が33分49秒6で金メダル。3000m障害は高橋進(広島)が9分30秒4で勝った。4×100mリレーは田島政次(中大)、大橋敏宏(慶大)、細田富男(八幡製鉄)、生駒一太(門鉄)の日本はバトンパスで勝り、42秒7でインドに競り勝った。棒高跳は沢田文吉(岐阜市教委)が4m11で勝ち、助監督の41歳、西田が3m61で3位に入って周囲を驚かせた。三段跳の飯室芳男(東鉄)は15m18で快勝し、走幅跳は田島が7m14で勝った。ハンマー投は釜本文男(日大教)が46m65で制し、やり投で永易晴夫(日大)が63m97で快勝。十種競技は西内文夫(丸亀二中教)が6324点で優勝。棒高跳の覇者・沢田は2位になった。
女子は吉野のほか、100mでは杉村清子(日女体大)が12秒6で勝ち、4人で争った200mは岡本貴美子(光華女高)が26秒0で1位。80mハードルは米陀京子(中京女短大)が12秒8で優勝した。岡本、佐藤妙子(日東紡)、吉川綾子(芦屋女高)、杉村のオーダーを組んだ4×100mリレーは51秒4で1位。走高跳は米陀が1m49で制し、走幅跳は杉村が5m91の好記録で快勝した。
4月19日の第55回ボストン・マラソンに日本から初参加し、日大に入ったばかりの田中茂樹が2時間27分45秒で優勝した。マラソン3回目の田中は「心臓破りの丘」を過ぎた下りでスパートする見事なレース運びで伝統のレースを制し、日本中が沸き上がった。小柳瞬治が5位、内川義高が8位、拝郷弘美が9位と4人全員が10位以内に入った。
5月8日のIOC総会(オーストリア・ウィーン)で日本の五輪参加が正式に承認。6月から7月には南部忠平監督、岡野栄太郎、田島、菊池由紀夫、高橋、沢田の5選手がブラジルに遠征している。7月11日から8月22日まで、日米対抗が神宮競技場を皮切りに大阪、熊本、鹿児島、北九州、名古屋、金沢、新潟、札幌、仙台、福島、横浜の全国12ヵ所で開催され、7つの日本新がマークされた。11月13~19日には青森~東京間都県対抗駅伝(青東駅伝)が始まった。
戦後初、ヘルシンキ五輪参加
入賞3、女子円盤投の吉野4位
1952年(昭和27年)3月31日、進駐軍が接収していた明治神宮外苑競技場(ナイルキニック・スタジアム)が返還された。4月28日には前年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約が発効。日本が連合国の占領から解放され、国家としての主権を取り戻した。
こうして迎えた戦後初、日本にとって16年ぶりに出場が認められた夏のオリンピック、第15回ヘルシンキ五輪が7月19日から8月3日に開催された。陸上は春日弘総監督、織田幹雄ヘッドコーチ以下、19選手(男子16、女子3)が参加した。エミール・ザトペック(チェコスロバキア)が史上初めて男子5000m、10000m、マラソンの長距離3種目制覇を果たし、「人間機関車」と称された大会。日本はメダルなしに終わり、前回出場した1936年ベルリン五輪から成績上は大きく後退したものの、女子円盤投の吉野トヨ子(山梨県教委)が43m81で4位、男子三段跳の飯室芳男(東映)が14m99で6位、男子棒高跳の沢田文吉(岐阜市教委)が4m20で6位入賞し、新たなスタートを切った。
吉野は競技第1日(7月20日)、4投目に43m81を投げ、ソ連の3選手に次いで4位になった。男子棒高跳決勝は第3日(22日)に実施。予選通過者が多かったため、競技開始が午後3時から2時に前倒しされていたのを沢田は知らず、遅刻した。競技は始まっていたが事情を話すと出場が認められ、1回だけ練習後に3m80をクリアした。3m95の跳躍では足をぶつけてスチール製のポールを曲げてしまうアクシデント。予備は持参しておらず、伊藤貫三マネジャーが慌てて選手村へ取りに戻り、何とか間に合ってこの高さを成功した。2度の危機を脱すると4m10、4m20を1回で越えた。9人が残り、続く4m30は落としたものの、6位入賞となった。
「お家芸」三段跳は第4日(23日)に行われ、沢田は14m55が通過ラインの予選を14m81で軽くクリアした。決勝はファウルが多く、1回目の14m99が最高ながら6位に入った。優勝したアデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)は16m22の世界新を樹立した。
走幅跳では、男子の田島政次(中大)は決勝で7m00をジャンプして10位と入賞に迫る。女子の吉川綾子(帝塚山学院大)は決勝1回目に5m54を跳んだが伸ばせず、16位。ザトペックが2時間23分03秒で勝ったマラソンの日本勢は、西田勝雄(中大)の25位が最高だった。
9月21日から10月12日にはオリンピック優秀選手招待が各地を転戦し、ヘルシンキ五輪女子100m、200m2冠のマージョリー・ジャクソン(豪州)が10月4日(岐阜)、100mで11秒4の世界新をマークした。
11月15日から24日にかけて、西日本各県対抗九州一周駅伝が始まった。
ボストンマラソンで山田優勝
全日本実業団始まる
1953年(昭和28年)は、4月20日に行われた第57回ボストン・マラソンで山田敬蔵(同和鉱業)が2時間18分51秒で優勝した。ヘルシンキ五輪では2時間38分12秒で26位と悔しさを味わったが、ボストンではそれまでの世界最高を上回った。後に距離不足のため記録更新は認められなかったものの、戦後の復興途上にあった日本に希望を与える快走だった。
7月11、12日に全日本実業団対抗選手権(倉吉)が始まった。8月13~16日にドイツ(旧西ドイツ)のドルトムントで開催された第3回国際学生スポーツ週間に戦後初参加。男子5000mの井上治(中大)が14分48秒6、走幅跳で田島政次(中大)が7m66、ハンマー投で小島義雄(法大)が50m33で優勝した。
この年の1月4日には総裁秩父宮雍仁親王殿下が薨去された。50歳。神宮競技場の走路がアンツーカー舗装となった。
第2回アジア大会で金メダル17
1954年(昭和29年)5月1日から9日まで、第2回アジア競技大会がフィリピンの首都マニラで開催された。大会直前の4月30日に、第3回大会を東京で4年後に開くことが決まった日本は、151選手、役員47人の計198人の選手団を派遣。5月2日から4日間、実施された陸上には織田幹雄総監督以下、52選手(男子37、女子15)が参加し、17個の金メダルを獲得して第1回大会に続いて強さを発揮した。
男子では、400mの赤木完次(中大)が48秒5の日本新で金メダル。室矢芳隆(八幡製鉄)は800mを1分54秒5で制し、1500mでは2位になった。5000mは井上治(中大)が15分00秒2で勝ち、3000m障害の高橋進(八幡製鉄)は9分15秒0で2連覇した。棒高跳では沢田文吉(岐阜市教委)が4m06で金メダル、松本豊吉(慶大)が3m91で銀メダルを獲得し、上位を独占。佐川憲昭(旭化成)は走幅跳を7m02、三段跳を15m13で制して2冠を達成した。4×100mリレーは田島政次(富士製鉄)、高谷美城(慶大)、細田富男(八幡製鉄)、清藤亨(中大)の日本が41秒2、4×400mリレーは松井昭(旭化成)、室矢、松野信昭(東海銀行)、赤木のオーダーで臨んだ日本が3分17秒4で勝った。
女子では、南部敦子(光華短大)が100mを12秒5で制し、200mで銀、走幅跳で銀と複数種目でメダルを獲得した。200mは田中みどり(南日本新聞)が26秒0で優勝した。80mハードルは岩本美知子(鈴峯短大)が11秒7で金メダル。走幅跳は高橋ヨシ江(中大)が5m68で1位になった。吉野トヨ子(埼玉県庁)が砲丸投(12m31)と円盤投(42m89)で2種目制覇を果たした。やり投の栗原明子(茨城大)は44m07で勝った。
10月9~31日には西ドイツチームが来日し、神宮競技場など全国11会場で日独親善競技が行われた。男子100mでハインツ・フュッテラー(西ドイツ)が10月31日に横浜で10秒2の世界タイをマークした。
12月5日の第8回金栗賞朝日国際マラソン(神奈川)に外国選手が初出場。ヘルシンキ五輪銀メダルのレイナルド・ベルト・ゴルノ(アルゼンチン)が2時間24分55秒で勝った。
日本陸連創立30周年
1955年(昭和30年)4月、日本陸連は創立30周年を迎えた。「日本陸連30年史」を刊行(1956年8月15日発刊)。 秩父宮章が制定され、10月31日に横浜・三ツ沢で第1回受賞者の平沼亮三氏、金栗四三氏、織田幹雄氏、浅野均一氏、南部忠平氏ら66人に秩父宮妃殿下から授与された。11月2日に横浜市野沢屋デパートで30周年記念式典が開かれた。11月3日に平沼亮三氏がスポーツ界初の文化勲章を受章した。同時期の10月30日から11月3日には第10回国体が神奈川県で開催。陸上は三ツ沢競技場が舞台となり、開会式では日本陸連会長で横浜市長の平沼氏が炬火最終ランナーを務めた。
4月19日の第59回ボストンマラソンでは日本人3人目の優勝者が誕生した。浜村秀雄(協和発酵)が2時間18分22秒で勝ち、2年前のボストンで山田敬蔵(同和鉱業)が出した2時間18分51秒を更新した。だが、2年後の1957年に距離が1085m短いことが判明し、前年までの記録が取り消しとなっている。
8月28日には第1回全国中学校放送陸上競技大会が日本陸連、NHKの共催で行われた。10月9日には第1回一般対学生(小田原)が実施された。
三段跳で小掛「世界新」、メルボルン五輪は8位
マラソン川島は5位入賞
1956(昭和31)年の10月7日、仙台で行われた第40回日本選手権の男子三段跳で小掛照二が16m48の「世界新」をマークして優勝した。1回目は15m77。2回目にホップ5m95、ステップ5m15、ジャンプ5m38の大ジャンプで16mを大きく超え、11月に始まるメルボルン五輪の金メダル候補に名乗りを上げ、国内は大きく盛り上がった。
ヘルシンキ五輪金メダルのアデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)が前年5月16日にメキシコで出した16m56が世界記録として公認され、小掛の16m48は国際陸連の世界記録の歴代リストからは外れているものの、田島直人が1936年ベルリン五輪で金メダルに輝いた際に樹立した当時の世界記録16m00を大きく上回る日本新記録でもあった
南半球で初めて開催された第16回メルボルン五輪。現地の春から夏へと向かう時期の11月22日~12月8日に行われた。陸上は11月23日~12月1日に実施され、西田修平監督以下、19選手(男子16、女子3)が参加した。最大の注目は三段跳の「世界記録保持者」小掛照二(大昭和)。この種目の日本勢4度目の五輪制覇の期待が高まった。
男子三段跳は11月27日に行われた。小掛は午前の予選(通過ライン14m80)を15m63で楽々とクリアした。決勝は1回目に15m64、2回目は記録を伸ばせず、この時点で7位。ベスト6をかけた3回目は15m01にとどまり、4回目以降に進めなかった。小掛は「世界新」を出して1週間後に静岡で始まった五輪に向けた合宿中、報道陣のリクエストに応じて撮影用に軽くジャンプを繰り返しているうちに足首を捻挫していたという。そこから本格的な練習ができないまま臨んだ五輪だった。力強い跳躍は影を潜め、最終順位は8位だった。
他の日本勢もベスト6に残れず、櫻井孝次(早大)は15m73で7位、柴田宏(松屋)は15m25で13位だった。日本はこの種目に初出場した1924年パリ五輪以来、入賞が続いていたが、ついに途切れた。アデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)が16m35で2連覇した。
日本勢唯一の入賞となった男子マラソンは、最終日(12月1日)に行われた。午後3時15分スタート。日本勢は川島義明(日大)が18kmあたりから順位を上げ、30kmでは2位グループ。足の痛みで次第に後退したものの、5位をキープし、2時間29分19秒でフィニッシュした。浜村秀雄(山口県庁)は2時間40分53秒で16位、広島庫夫(旭化成)は2時間29分40秒で33位だった。
男子走高跳の石川行男(大昭和)は1m96に成功したが2m00は跳べず、12位だった。女子ではやり投の志田順子(中大)が予選を通過したが、決勝は44m96で12位だった。
五輪前の7月28日には東京オリンピック招致のため、明治神宮外苑競技場を国立競技場として建設する計画が発表された。11月25日には神宮競技場の惜別式典が秩父宮妃殿下をお迎えして行われた。
1957年(昭和32年)3月3日には三重県で第1回全日本実業団対抗駅伝が開催された。伊勢神宮外宮前から賢島で折り返す7区間、83.6kmに14チームが参加して行われ、5区間で区間賞を獲得した八幡製鐵が初代王者となった。
記事提供:月刊陸上競技
昭和26年4月~昭和32年3月
第1回アジア大会、20種目で優勝
ボストン・マラソンで田中茂樹が初制覇
1951(昭和26)年、3月4~11日にインド・ニューデリーで第1回アジア競技大会が開催された。大会は日本、中国、フィリピンなどが参加して戦前に10度開催された極東選手権と、1度だけ開催された西アジア競技大会を併合するかたちで誕生。大会創設に関してはインドが主導的な役割を果たした。1948年ロンドン五輪開催中に、インドの国際オリンピック委員会(IOC)委員、ソンディ氏の提案で五輪に参加していたアジア諸国の代表が集まり、アジア独自の総合大会を創設することで合意。第1回大会を1950年秋にニューデリーで開催し、以降はオリンピックの中間年に4年に1度実施することになった。1949年12月には大会を開くための組織として、アジア競技連盟(AGF)が設立されたが、大会で使用する器具の調達などが大幅に遅れ、開催は1951年3月にずれ込んだ。
占領下にあった日本には1950年2月に連合国軍総司令部(GHQ)を通じて招待状が届いた。日本の出場には戦争で対日感情が悪化していたフィリピンが否定的な姿勢を示していたが、日本体協はGHQ、文部省の協力を得ながら参加の準備を始めた。同年7月のAGF総会で、日本の国内競技団体が国際競技連盟に加盟を認められればアジア大会に参加可能との決議がなされ、日本陸連などの国際復帰が進む中、参加の道が開かれた。
陸上は8日から最終日の11日まで行われ、日本からは織田幹雄監督、西田修平、児島文の両助監督以下、男女31選手(男子24、女子7)が参加。男子は24種目中11種目で優勝し、女子は吉野トヨ子(甲府二高教)が砲丸投で11m90、円盤投で42m10、やり投で36m23をマークして3冠に輝くなど、9種目すべてで優勝する大活躍だった。全競技を通じた日本の優勝数は24。そのうち、陸上が20を占めた。

吉野トヨ子 ©フォート・キシモト
男子は岡野栄太郎(中大)が400mを50秒7、400mハードルは54秒2の日本タイで2種目制覇を果たし、10000mでは田茂井宗一(鐘紡)が33分49秒6で金メダル。3000m障害は高橋進(広島)が9分30秒4で勝った。4×100mリレーは田島政次(中大)、大橋敏宏(慶大)、細田富男(八幡製鉄)、生駒一太(門鉄)の日本はバトンパスで勝り、42秒7でインドに競り勝った。棒高跳は沢田文吉(岐阜市教委)が4m11で勝ち、助監督の41歳、西田が3m61で3位に入って周囲を驚かせた。三段跳の飯室芳男(東鉄)は15m18で快勝し、走幅跳は田島が7m14で勝った。ハンマー投は釜本文男(日大教)が46m65で制し、やり投で永易晴夫(日大)が63m97で快勝。十種競技は西内文夫(丸亀二中教)が6324点で優勝。棒高跳の覇者・沢田は2位になった。
女子は吉野のほか、100mでは杉村清子(日女体大)が12秒6で勝ち、4人で争った200mは岡本貴美子(光華女高)が26秒0で1位。80mハードルは米陀京子(中京女短大)が12秒8で優勝した。岡本、佐藤妙子(日東紡)、吉川綾子(芦屋女高)、杉村のオーダーを組んだ4×100mリレーは51秒4で1位。走高跳は米陀が1m49で制し、走幅跳は杉村が5m91の好記録で快勝した。
4月19日の第55回ボストン・マラソンに日本から初参加し、日大に入ったばかりの田中茂樹が2時間27分45秒で優勝した。マラソン3回目の田中は「心臓破りの丘」を過ぎた下りでスパートする見事なレース運びで伝統のレースを制し、日本中が沸き上がった。小柳瞬治が5位、内川義高が8位、拝郷弘美が9位と4人全員が10位以内に入った。
5月8日のIOC総会(オーストリア・ウィーン)で日本の五輪参加が正式に承認。6月から7月には南部忠平監督、岡野栄太郎、田島、菊池由紀夫、高橋、沢田の5選手がブラジルに遠征している。7月11日から8月22日まで、日米対抗が神宮競技場を皮切りに大阪、熊本、鹿児島、北九州、名古屋、金沢、新潟、札幌、仙台、福島、横浜の全国12ヵ所で開催され、7つの日本新がマークされた。11月13~19日には青森~東京間都県対抗駅伝(青東駅伝)が始まった。
戦後初、ヘルシンキ五輪参加
入賞3、女子円盤投の吉野4位
1952年(昭和27年)3月31日、進駐軍が接収していた明治神宮外苑競技場(ナイルキニック・スタジアム)が返還された。4月28日には前年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約が発効。日本が連合国の占領から解放され、国家としての主権を取り戻した。
こうして迎えた戦後初、日本にとって16年ぶりに出場が認められた夏のオリンピック、第15回ヘルシンキ五輪が7月19日から8月3日に開催された。陸上は春日弘総監督、織田幹雄ヘッドコーチ以下、19選手(男子16、女子3)が参加した。エミール・ザトペック(チェコスロバキア)が史上初めて男子5000m、10000m、マラソンの長距離3種目制覇を果たし、「人間機関車」と称された大会。日本はメダルなしに終わり、前回出場した1936年ベルリン五輪から成績上は大きく後退したものの、女子円盤投の吉野トヨ子(山梨県教委)が43m81で4位、男子三段跳の飯室芳男(東映)が14m99で6位、男子棒高跳の沢田文吉(岐阜市教委)が4m20で6位入賞し、新たなスタートを切った。
吉野は競技第1日(7月20日)、4投目に43m81を投げ、ソ連の3選手に次いで4位になった。男子棒高跳決勝は第3日(22日)に実施。予選通過者が多かったため、競技開始が午後3時から2時に前倒しされていたのを沢田は知らず、遅刻した。競技は始まっていたが事情を話すと出場が認められ、1回だけ練習後に3m80をクリアした。3m95の跳躍では足をぶつけてスチール製のポールを曲げてしまうアクシデント。予備は持参しておらず、伊藤貫三マネジャーが慌てて選手村へ取りに戻り、何とか間に合ってこの高さを成功した。2度の危機を脱すると4m10、4m20を1回で越えた。9人が残り、続く4m30は落としたものの、6位入賞となった。
「お家芸」三段跳は第4日(23日)に行われ、沢田は14m55が通過ラインの予選を14m81で軽くクリアした。決勝はファウルが多く、1回目の14m99が最高ながら6位に入った。優勝したアデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)は16m22の世界新を樹立した。
走幅跳では、男子の田島政次(中大)は決勝で7m00をジャンプして10位と入賞に迫る。女子の吉川綾子(帝塚山学院大)は決勝1回目に5m54を跳んだが伸ばせず、16位。ザトペックが2時間23分03秒で勝ったマラソンの日本勢は、西田勝雄(中大)の25位が最高だった。
9月21日から10月12日にはオリンピック優秀選手招待が各地を転戦し、ヘルシンキ五輪女子100m、200m2冠のマージョリー・ジャクソン(豪州)が10月4日(岐阜)、100mで11秒4の世界新をマークした。
11月15日から24日にかけて、西日本各県対抗九州一周駅伝が始まった。
ボストンマラソンで山田優勝
全日本実業団始まる
1953年(昭和28年)は、4月20日に行われた第57回ボストン・マラソンで山田敬蔵(同和鉱業)が2時間18分51秒で優勝した。ヘルシンキ五輪では2時間38分12秒で26位と悔しさを味わったが、ボストンではそれまでの世界最高を上回った。後に距離不足のため記録更新は認められなかったものの、戦後の復興途上にあった日本に希望を与える快走だった。
7月11、12日に全日本実業団対抗選手権(倉吉)が始まった。8月13~16日にドイツ(旧西ドイツ)のドルトムントで開催された第3回国際学生スポーツ週間に戦後初参加。男子5000mの井上治(中大)が14分48秒6、走幅跳で田島政次(中大)が7m66、ハンマー投で小島義雄(法大)が50m33で優勝した。
この年の1月4日には総裁秩父宮雍仁親王殿下が薨去された。50歳。神宮競技場の走路がアンツーカー舗装となった。
第2回アジア大会で金メダル17
1954年(昭和29年)5月1日から9日まで、第2回アジア競技大会がフィリピンの首都マニラで開催された。大会直前の4月30日に、第3回大会を東京で4年後に開くことが決まった日本は、151選手、役員47人の計198人の選手団を派遣。5月2日から4日間、実施された陸上には織田幹雄総監督以下、52選手(男子37、女子15)が参加し、17個の金メダルを獲得して第1回大会に続いて強さを発揮した。
男子では、400mの赤木完次(中大)が48秒5の日本新で金メダル。室矢芳隆(八幡製鉄)は800mを1分54秒5で制し、1500mでは2位になった。5000mは井上治(中大)が15分00秒2で勝ち、3000m障害の高橋進(八幡製鉄)は9分15秒0で2連覇した。棒高跳では沢田文吉(岐阜市教委)が4m06で金メダル、松本豊吉(慶大)が3m91で銀メダルを獲得し、上位を独占。佐川憲昭(旭化成)は走幅跳を7m02、三段跳を15m13で制して2冠を達成した。4×100mリレーは田島政次(富士製鉄)、高谷美城(慶大)、細田富男(八幡製鉄)、清藤亨(中大)の日本が41秒2、4×400mリレーは松井昭(旭化成)、室矢、松野信昭(東海銀行)、赤木のオーダーで臨んだ日本が3分17秒4で勝った。
女子では、南部敦子(光華短大)が100mを12秒5で制し、200mで銀、走幅跳で銀と複数種目でメダルを獲得した。200mは田中みどり(南日本新聞)が26秒0で優勝した。80mハードルは岩本美知子(鈴峯短大)が11秒7で金メダル。走幅跳は高橋ヨシ江(中大)が5m68で1位になった。吉野トヨ子(埼玉県庁)が砲丸投(12m31)と円盤投(42m89)で2種目制覇を果たした。やり投の栗原明子(茨城大)は44m07で勝った。
10月9~31日には西ドイツチームが来日し、神宮競技場など全国11会場で日独親善競技が行われた。男子100mでハインツ・フュッテラー(西ドイツ)が10月31日に横浜で10秒2の世界タイをマークした。
12月5日の第8回金栗賞朝日国際マラソン(神奈川)に外国選手が初出場。ヘルシンキ五輪銀メダルのレイナルド・ベルト・ゴルノ(アルゼンチン)が2時間24分55秒で勝った。
日本陸連創立30周年
1955年(昭和30年)4月、日本陸連は創立30周年を迎えた。「日本陸連30年史」を刊行(1956年8月15日発刊)。 秩父宮章が制定され、10月31日に横浜・三ツ沢で第1回受賞者の平沼亮三氏、金栗四三氏、織田幹雄氏、浅野均一氏、南部忠平氏ら66人に秩父宮妃殿下から授与された。11月2日に横浜市野沢屋デパートで30周年記念式典が開かれた。11月3日に平沼亮三氏がスポーツ界初の文化勲章を受章した。同時期の10月30日から11月3日には第10回国体が神奈川県で開催。陸上は三ツ沢競技場が舞台となり、開会式では日本陸連会長で横浜市長の平沼氏が炬火最終ランナーを務めた。
4月19日の第59回ボストンマラソンでは日本人3人目の優勝者が誕生した。浜村秀雄(協和発酵)が2時間18分22秒で勝ち、2年前のボストンで山田敬蔵(同和鉱業)が出した2時間18分51秒を更新した。だが、2年後の1957年に距離が1085m短いことが判明し、前年までの記録が取り消しとなっている。
8月28日には第1回全国中学校放送陸上競技大会が日本陸連、NHKの共催で行われた。10月9日には第1回一般対学生(小田原)が実施された。
三段跳で小掛「世界新」、メルボルン五輪は8位
マラソン川島は5位入賞
1956(昭和31)年の10月7日、仙台で行われた第40回日本選手権の男子三段跳で小掛照二が16m48の「世界新」をマークして優勝した。1回目は15m77。2回目にホップ5m95、ステップ5m15、ジャンプ5m38の大ジャンプで16mを大きく超え、11月に始まるメルボルン五輪の金メダル候補に名乗りを上げ、国内は大きく盛り上がった。

小掛照二 ©フォート・キシモト
ヘルシンキ五輪金メダルのアデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)が前年5月16日にメキシコで出した16m56が世界記録として公認され、小掛の16m48は国際陸連の世界記録の歴代リストからは外れているものの、田島直人が1936年ベルリン五輪で金メダルに輝いた際に樹立した当時の世界記録16m00を大きく上回る日本新記録でもあった
南半球で初めて開催された第16回メルボルン五輪。現地の春から夏へと向かう時期の11月22日~12月8日に行われた。陸上は11月23日~12月1日に実施され、西田修平監督以下、19選手(男子16、女子3)が参加した。最大の注目は三段跳の「世界記録保持者」小掛照二(大昭和)。この種目の日本勢4度目の五輪制覇の期待が高まった。
男子三段跳は11月27日に行われた。小掛は午前の予選(通過ライン14m80)を15m63で楽々とクリアした。決勝は1回目に15m64、2回目は記録を伸ばせず、この時点で7位。ベスト6をかけた3回目は15m01にとどまり、4回目以降に進めなかった。小掛は「世界新」を出して1週間後に静岡で始まった五輪に向けた合宿中、報道陣のリクエストに応じて撮影用に軽くジャンプを繰り返しているうちに足首を捻挫していたという。そこから本格的な練習ができないまま臨んだ五輪だった。力強い跳躍は影を潜め、最終順位は8位だった。
他の日本勢もベスト6に残れず、櫻井孝次(早大)は15m73で7位、柴田宏(松屋)は15m25で13位だった。日本はこの種目に初出場した1924年パリ五輪以来、入賞が続いていたが、ついに途切れた。アデマール・フェレイラ・ダシルヴァ(ブラジル)が16m35で2連覇した。
日本勢唯一の入賞となった男子マラソンは、最終日(12月1日)に行われた。午後3時15分スタート。日本勢は川島義明(日大)が18kmあたりから順位を上げ、30kmでは2位グループ。足の痛みで次第に後退したものの、5位をキープし、2時間29分19秒でフィニッシュした。浜村秀雄(山口県庁)は2時間40分53秒で16位、広島庫夫(旭化成)は2時間29分40秒で33位だった。
男子走高跳の石川行男(大昭和)は1m96に成功したが2m00は跳べず、12位だった。女子ではやり投の志田順子(中大)が予選を通過したが、決勝は44m96で12位だった。
五輪前の7月28日には東京オリンピック招致のため、明治神宮外苑競技場を国立競技場として建設する計画が発表された。11月25日には神宮競技場の惜別式典が秩父宮妃殿下をお迎えして行われた。
1957年(昭和32年)3月3日には三重県で第1回全日本実業団対抗駅伝が開催された。伊勢神宮外宮前から賢島で折り返す7区間、83.6kmに14チームが参加して行われ、5区間で区間賞を獲得した八幡製鐵が初代王者となった。
記事提供:月刊陸上競技


