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日本陸上競技連盟史

復興期:1946年度~1950年度

1946年度~1950年度
昭和21年4月~昭和32年3月


競技会再開の動き広がる
京都で国体スタート

 1946年(昭和21年)4月、日本陸上j競技連盟の規約が初めて出来上がり、名実ともに国内の統括団体として再スタートを切った。

 競技会再開の動きも活発化し、9月15日に連合国軍総司令部(GHQ)が接収中のナイルキニック・スタジアム(明治神宮外苑競技場)で早慶戦が復活。10月14日には第10回東西対抗(神宮)が開かれた。10月21日には第1回毎日マラソンが大阪市で行われ、古賀新三(三井山野)が2時間44分57秒で優勝した。

 11月1日から3日には京都西京極競技場で戦後初の第30回日本選手権を兼ねた国民体育大会が開かれた。山内リエ(広島)が走高跳1m61、走幅跳5m54、砲丸投12m06でそれぞれ1位になった。11月20日の全九州対近畿大会(福岡・鞘ヶ谷)の走高跳で山内リエが1m63をマーク。戦後初の日本新記録誕生となった。
1946年 国体写真 ©フォート・キシモト

 太平洋戦争によって陸上界も多くの名選手の命が失われ、競技力は大きく低下した。レベルの回復に努めようとするなか、1946年には国際陸連(IAAF)から日本陸連を除名したとの通知が届く。これで国際大会出場への道が断たれたかたちになった。

 1947年(昭和22年)に入ると1月4、5日、東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)が復活し、明大が優勝した。

 この年、地方組織を都道府県組織に変更。3月9日には新役員を選任し、平沼亮三会長、春日弘副会長、浅野均一理事長の体制となった。10月5日には臨時代議員会で秩父宮雍仁親王殿下が総裁に推戴された。

 7月19、20日には日本学生陸上競技連合が復活し、5年ぶりで第16回日本学生対校選手権(日本インカレ)が神宮競技場で開催された。この年から天皇賜杯の下賜を受けた。8月2、3日には全国中等学校大会(西京極)が復活している。

 日本選手権は地方開催となり、10月4、5日に福岡県の鞘ケ谷競技場で行われ、山内リエが五種競技で日本新を樹立した。国体は日本選手権と分離開催となり、第2回大会は10月30日~11月3日に石川・金沢で実施された。12月7日には第1回金栗賞朝日マラソン(熊本)が始まった。

ロンドン五輪出場かなわず

 1948(昭和23)年はロンドン五輪イヤーだったが、第2次世界大戦の敗戦国、日本はドイツとともに大会に招待されず、出場の道は閉ざされた。一方で日独と3国軍事同盟を結んでいたイタリアは、大戦終結前に降伏していたため参加が認められている。前年の1947年5月には国際陸連(IAAF)に再加盟申請書を提出して五輪参加の道を探っていたが、認められなかった。

 五輪に選手を送り込めない代わりに、日本選手権をロンドン五輪(7月29日~8月14日)閉幕に合わせて8月14、15日に山形市で開催し、対抗心をあおった。男子三段跳では長谷川敬三が戦後の世界最高となる15m62で優勝。五輪の優勝記録(15m40)を上回った。女子走幅跳の山内リエも5m77と、金メダルの記録(5m69)を超えた。水泳でもロンドン五輪の日程に合わせて日本選手権を開催し、古橋広之進が自由形で相次いで世界最高記録で泳いでいる。
山内リエ ©フォート・キシモト

 この年の3月には公認審判員制度が発足。4月から学制が現在の「6・3・3・4」制に改まったことを受け、7月に全国高等学校体育連盟(高体連)が創設される。中等学校は新制高校へと移行され、7月23~25日には日本陸連、日本学連の共催で第1回全国高等学校対抗選手権が名古屋市瑞穂公園競技場で開催された。前年に復活したインターミドルはインターハイへと引き継がれた。男子は磐田一(静岡)、女子は光華女(京都)が優勝した。

 10月29日~11月3日の第3回国体は福岡で開催され、天皇杯、皇后杯が下賜された。11月13日には大日本体育会(旧大日本体育協会)が日本体育協会(日本体協)に名称を改めた。

 1949年(昭和24年)、日本陸連は地方支部制を廃止し、地方陸協を置いた。3月20日の東京陸協記録会(中大練馬)ではスターティングブロックが初めて採用された。スコップでグラウンドを掘り、その穴に足を入れてスタートする方法から一変された。7月10日から織田幹雄ヘッドコーチが米国に派遣された。10月30日~11月3日の第4回国体は東京で開催された。12月には高体連に陸上競技部が発足した。


国際陸連(IAAF)復帰、再び世界へ

 1950(昭和25)年には待望の国際陸連(IAAF)復帰が実現する。8月22日にベルギー・ブリュッセルで開かれたIAAF総会。日本からは陸連の浅野均一理事長がオブザーバーとして出席していた。翌年の第1回アジア大会をニューデリーで開くことが決まっていたインドによる再加盟支持が後押しとなった。採決ではチェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアが反対、フィリピンが棄権した以外、賛成多数で日本の復帰が決まった。その決議後、即座に他の議題に投票する権利を認められる優遇を受けている。

戦後日本陸上界の願いがかなかったIAAF総会直後の8月29日、浅野理事長はスイス・ローザンヌで開催された国際オリンピック委員会(IOC)実行委員会に日本体協国際総務主事として出席し、1952年ヘルシンキ五輪への日本の参加を願い出た。討議の末に「許可」され、五輪参加への道も開けた。

この年、7月15、16日に行われた第19回日本インカレ(千葉)を天皇、皇后両陛下が観戦された。12月27日には第1回全国高校駅伝が大阪で行われ、世羅(広島)が優勝した。

記事提供:月刊陸上競技