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日本陸上競技連盟史

東京五輪前夜:1957年度~1963年度

1957年度~1963年度
昭和32年4月~昭和39年3月


国立競技場竣工式
東京で第3回アジア大会

 1957年(昭和32年)、5月に小田原市で日本実業団陸上競技連合の結成式が行われ、発足した。これに先立つ1953年に第1回全日本実業団対抗選手権が開催されたのを機に、1955年に関西と中部の実業団連盟が結成。1957年には西日本、東日本の連盟が発足し、これらの4団体を連合する形で日本の実業団陸上を統括する組織ができあがった。

 12月1日の朝日国際マラソン(福岡)では広島庫夫(旭化成)が従来の日本最高を2分11秒更新する2時間21分40秒で優勝した。

 1958年(昭和33年)の3月30日、明治神宮外苑競技場を解体して同年5月の第3回アジア競技大会に向けて新設していた国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)が完成し、落成式が行われた。1964年には東京オリンピックのメイン会場となるなど、日本のスポーツ界の「聖地」として親しまれることになるスタジアム誕生である。
国立競建設中 ©フォート・キシモト

 落成式後の午前10時から、マラソンのアジア大会代表選考レースが国立競技場発着、東京・練馬区朝日町八坂神社前折り返しの大会本番と同じコースで実施された。2時間25分08秒0で1位になった貞永信義と2位の浜村秀雄が代表となり、3位の広島庫夫が補欠となった。マラソンを除く日本代表の選考会は5月2日から3日間、国立競技場と武蔵野競技場で行われ、男子46人、女子17人の計63人の代表が決定した。男子10000mでは馬場孝が29分57秒8の日本新をマークし、初めて30分の壁を破った。

 5月13日には東京都が国際オリンピック委員会(IOC)に1964年の第18回オリンピックの招致を申請。5月14~16日には東京でIOC総会を開催した。これには総会に集まったIOC委員に東京で開催するアジア大会を観戦してもらい、五輪招致につなげようとする意図があった。

 東京五輪招致に向けた動きが活発化するなか、第3回アジア競技大会が5月24日に開幕した。国立競技場で行われた開会式では、「聖火」最終ランナーを織田幹雄氏が務めた。大会旗は織田氏が1928年アムステルダム五輪三段跳で優勝した際の優勝記録15m21と同じ高さで、第4コーナー内側に設置された「織田ポール」に掲げられた。「エバーオンワード(限りなき前進)」を大会スローガンに、20ヵ国の選手、役員約1700人が参加。6月1日の閉会式までの観客は70万人だった。

 中村清監督以下、63選手(男子46、女子17)で臨んだ日本陸上チームは男子5、女子7の計12種目で金メダルを獲得した。競技第1日(5月25日)は発表で超満員の8万人が詰めかける大盛況ぶり。男子5000mでは井上治(富士製鉄)が終盤のスパートを鮮やかに決め、14分39秒4で2連覇を達成した。女子円盤投では内田弘子(大洋デパート)が41m90、小保内聖子(日大)が40m29で1、2位を占めた。

 第2日(5月26日)は女子200mで小林祐子(向陽高・愛知)が終盤の競り合いを制して25秒9で金メダル。3位には塩尻裕子(光華女高・京都)が26秒3で入り、高校生が健闘した。男子800mは室矢芳隆(八幡製鉄)が残り100mで先頭に立ち、1分52秒1の大会新で2連覇を達成。女子砲丸投では小保内が13m26で1位、吉田素子(八幡製鉄)が13m07で2位に続き、日本勢が強さを発揮した。
 第3日(5月27日)は決勝6種目中4種目で日本が頂点に立つ。男子10000mは馬場孝(日大)がラストの直線でリードを奪い、30分48秒4の大会新で勝った。女子80mハードルでは岩本美和子(帝人三原)が11秒6、同やり投の志田順子(大昭和)は47m15のともに大会新で制した。同走高跳は神谷美恵子(西遠女高)が1m58の大会新で優勝し、近藤由美子(旭化成)は1m54で3位に入った。
 第4日(5月28日)は男子棒高跳の安田矩明(東教大)が4m20を1回目に成功。3人が続く4m25に挑んだものの全員が失敗し、試技数の少ない安田が1位になった。4m20は大会新。赤坂宏三(リッカー)も4m20で2位となった。

 陸上最終日(5月29日)は女子4×100mリレーで福山さくら(福岡陸協)、藤井芳枝(光華女短大)、依田郁子(リッカー)、小林の日本は、48秒6の大会新で1位。男子4×400mリレーでは赤木完次(富士製鉄)、大串啓二(成徳高教)、林季夫文(明治生命)、室矢芳隆(八幡製鉄)の日本が3分13秒9の大会新で勝ち、有終の美を飾った。

 この他、男子400mハードルでは大串が52秒8の日本新で銀メダル。3000m障害は布上正之(リッカー)が9分04秒2で2位、日本選手団の主将を務めた高橋進(八幡製鉄)は9分05秒8で3位だった。「お家芸」三段跳は桜井孝次(早大)が15m41で2位、太田富夫(早大)が15m19で3位と優勝には届かず、走高跳は笠松登(リッカー)が2m00で銀、石川行男(富士見高教)は1m95で銅メダル。マラソンは貞永信義(鐘紡)が2時間43分44秒で3位になったのが日本勢の最高だった。

 男子十種競技は楊伝広(台湾)が7101点で圧勝した。走幅跳で7m49、110mハードルで14秒5でともに銀メダルを獲得し、400mハードルでも53秒0で3位に入るなど、〝アジアの鉄人〟ぶりを発揮した。

 8月には米国チームが来日し、学連30周年記念日本学生対米国(8月23、24日・国立)、全日本対米国(9月14日・小田原)など対抗戦を実施した。

東京オリンピック実現

 1959年(昭和34年)の2月13日、日本陸連の平沼亮三会長が79歳で逝去。3月13日に春日弘氏が会長に就任し、浅野均一副会長、西田修平理事長の新体制となった。8月22日には西田理事長が辞任し、浅野副会長が理事長を代行する措置が取られた。

 4月に東京都都議会が東京オリンピック招致を決議して迎えた5月26日の国際オリンピック委員会(IOC)総会(西ドイツ・ミュンヘン)。1964年の第18回オリンピック開催都市が東京に決まった。1940年東京五輪が戦争で返上。敗戦を経て、アジアで初の五輪開催の悲願がかなった。

 8月27日から9月6日には学生スポーツの国際総合大会の名称がユニバーシアードに改まった第1回大会がイタリアのトリノで開催され、男子棒高跳の安田矩明(東教大)が4m35を跳んで優勝した。三段跳で桜井孝次(日立)が15m55で2位、柴田宏(中大)が15m44で3位。5000mでは横溝三郎(中大)が14分14秒8の日本新で銀メダル。渡辺国昭(中大)は800mで1分50秒9、1500mで3分52秒1のいずれも日本新で3位に入った。

 9月30日には東京オリンピック大会組織委員会(OOC)設立総会が開催された。10月には日独対抗が国立競技場などで、女子大会を含めて11ヵ所で行われた。

ローマ五輪惨敗

 1960年(昭和35年)、8月25日~9月11日に第17回ローマ五輪が開催された。前年に1964年東京五輪開催が決まった日本にとっては4年後に向けて起爆剤となる大事な戦いの場だった。日本陸上チームの総監督はこの年、陸連理事長に就任した鈴木良徳氏が務め、20選手(男子15、女子5)が参加したが、入賞0の惨敗。不安を残す結果となった。

 8月25日に開会式。男子マラソンが大会の最後を飾ることになり、陸上は大会後半に行われた。陸上第3日(9月2日)、男子走幅跳の岡崎高之(中大)は予選で7m58をマークしてただ一人決勝に進んだ。同日の決勝は競技開始が1時間遅れとなったのを、ウォーミングアップを済ませた後に知り、調子を崩した。フィールドに出て助走練習を始めたところ、脚がケイレン。回復しないまま競技が始まった。何とか1回でも試技をしようと努めたが、ケイレンは治まらず、1度も跳躍することなく棄権する不運に見舞われた。決勝の6位は7m68。予選の出来からすれば入賞は手が届く範囲にあったと言える。安間元重(リッカー)は7m34、海老名純(関学大)は6m83で予選落ちした。

 陸上第1日(8月31日)の女子走幅跳では、伊藤文子(リッカー)が予選2回目に5m88。通過ラインの5m80を超えた。福田晶子(大昭和)は5m78でわずかに及ばず、木村安子(リッカー)は5m45だった。決勝に進んだ伊藤は2回目に5m98を跳んだが9人が6mを超え、ベスト6に残れなかった。同日の男子400mハードルでは6月に52秒2の日本新をマークしていた大串啓二(旭化成)が予選で積極的に飛ばしながらも後半順位を落とし、52秒4の3組3着で落選した。

 陸上第2日(9月1日)の男子走高跳予選では、6月に2m07の日本新を樹立した杉岡邦由(日大)が1m95まではクリアしながら、予選通過ラインの2m00でつまずいた。ベリーロールかロールオーバーの選手のなか、杉岡の正面跳が一人目立つ試技だった。

 男子ハンマー投の岡本登(旭化成)は陸上第3日(9月2日)の予選を61m95で通過。陸上第4日(9月3日)の決勝では60m08の13位にとどまった。菅原武男(日大)は予選で59m32にとどまり敗退した。

 陸上第5日(9月4日)の男子棒高跳では、4m40が通過ラインの予選で安田矩明(旭化成)は4m20を1回でクリアしたが、4m30を3回とも失敗。ドイツでの直前合宿で肩を痛めたことが響いた。

 陸上第6日(9月4日)の男子三段跳では予選で大苦戦。太田富夫(早大)が2回目に15m42を跳び、通過ラインまで8cmと迫ったが、3回目はファウル。脚を故障していた桜井孝次(日立)は14m59、柴田宏(中大)は14m93と15mに達せず、3人とも落選した。

 予選敗退が続く中で迎えた最終日(9月10日)の男子マラソン。古代ローマ時代の主要街道の一つ、アッピア街道を通り、コンスタンティーノ凱旋門にフィニッシュするコースで行われた。日本勢は上位争いに絡めず、広島庫夫(旭化成)は2時間29分40秒で31位、渡辺和己(九電工)は2時間29分45秒で32位、貞永信義(鐘紡)は2時間35分11秒の35位に終わった。優勝はマラソン3度目のダークホース、アベベ・ビギラ(エチオピア)。2時間15分16秒2の世界最高で照明で浮かび上がったフィニッシュに飛び込んだ。シューズを履かずに石畳もあるコースを走り抜け、「はだしの王者」と称された。

 このほか、早瀬公忠(中京大)は男子200mで22秒3、400mで49秒1でともに予選落ち。4×100mリレーも大串、早瀬、岡崎、柴田のオーダーで予選を通過したものの、準決勝は42秒2の1組5着で決勝に勧めなかった。女子の砲丸投の松田靖子(大昭和)は13m51、円盤投の内田弘子(リッカー)は43m78で決勝に届かなかった。入賞0は日本が五輪に初参加した1912年ストックホルム大会以来だった。

 9月9日には日本陸連の浅野均一副会長がIAAF評議員に就任した。ローマ五輪の日本チームの総監督を務めた鈴木良徳理事長は、五輪の成績不振を理由に辞意を表明。10月26日に1度は撤回したが、12月10日には青木半治理事が後任の理事長に就任した。

 この年は一方で、若い力の台頭もあった。神戸インターハイ(兵庫)の男子5000mでは大阪・春日丘2年の沢木啓祐が15分12秒6で優勝。1500mも勝ち、次代のエース候補に名乗りを上げた。10月2日に秋田で開催された一般対学生の男子200mでは木村修三(大昭和)が21秒5をマークし、26年ぶりに日本記録を塗り替えた。

東京五輪へ立て直し、五者協定締結

 1961年(昭和36年)は3年後に迫った東京五輪に向けて、立て直しを迫られる1年となった。

 1959年10月に西田修平氏に代わって織田幹雄氏が強化委員長に就任し、東京五輪に向けて5年間の強化を一任されていた。ローマの反省から織田氏は中体連、高体連、学連、実業団の一貫した強化を考え、強化委員会、指導委員会、研究委員会の3委員会が協力して強化に当たる構想を発表。東京オリンピック選手強化指導本部を新設し、織田強化委員長が本部長を兼任して組織を統合した。本部は中体連、高体連、学連、実業団、日本陸連の各代表と学識経験者からなる中央委員会、強化委員会、指導委員会、研究委員会の3専門委員会によって構成された。強化指導本部は強化方針として①徹底した選手強化、②国際競技経験を豊かにするための外国遠征などの計画、③コーチの指導力の強化、④トレーニングセンターの建設、⑤強化に必要な科学的研究の奨励、⑥専任コーチの設置、⑦コーチの外国派遣と外国コーチの招聘、などを掲げ、東京五輪に向けて強化を進めようとした。

 1月19日には日本陸連が機構を大幅に改革。選手強化指導本部のほかに東京オリンピック組織委、第4回アジア大会準備委、海外派遣準備委の3委員会を新設した。

陸上界は一体となって東京五輪へ向かう態勢を整えるため、陸連、学連、実業団連合、高体連、中体連の5団体が3月18日付で「五者協定」を結んだ。

 日本の陸上界はそれぞれの団体が主体性を持って強化、運営に当たってきたのを一貫した態勢に変えるのが狙い。協定書には①選手強化の指導体制一元化、②東京大会陸上競技の組織・運営の万全、③選手の海外派遣、外国選手の招待等国際関係諸事業遂行の準備一本化、④陸上競技の国内普及の徹底――を目的として掲げた。具体策として、学連、実業団連合、高体連、中体連の4団体の会長(または副会長)は陸連の顧問とし、4団体の執行部代表(各2人以内)を陸連理事とすることなどを盛り込んだ。この協定は、陸上界の体制整備に大きな効果を及ぼし、東京五輪終了後も5団体が同様の協力態勢を継続することを確認する協定書を1965年3月7日付で交わしている。

 2月には西ドイツ、マインツ大教授のベルノ・ウィッシュマン博士が来日して7週間滞在。外国のコーチから理論を吸収する動きも早速具体化した。

 3月18、19日には東京五輪の強化策として国立競技場に隣接する東京体育館にボードのトラックを設置し、本格的な室内競技会、第1回NHK室内国際大会を開催した。ローマ五輪200m優勝のリビオ・ベルッティ(イタリア)ら4選手が来日。同じ会場で3月22、23日には第1回室内日本選手権が行われた。

 3月21日の第3回中日マラソン(名古屋)では新鋭の中尾隆行(中京大)が2時間20分の壁を破る2時間18分54秒の日本最高で優勝した。

 6月8日には陸連強化指導本部がオリンピック強化本部に改称された。同15日には日本陸上競技後援会(会長:今里広紀日本精工社長)が発足した。

 8月25日~9月3日のユニバーシアード(ブルガリア・ソフィア)には20選手が参加。男子の走幅跳で岡崎高之(中大)が7m67で銀メダルを獲得し、4×100mリレーでも日本(室、浅井、早瀬、岡崎)が41秒2の日本タイで2位。三段跳の太田富夫(大昭和)は15m65で銅メダルを得た。

 国内では好記録も生まれ、6月30日~7月2日の日本選手権(国立)の男子3000m障害で長距離が専門の横溝三郎(中大)が8分56秒2の日本新をマークし、日本人で初めて9分の壁を突破した。5月20日には全日本実業団(福岡・鞘ヶ谷)の女子100mで依田郁子(リッカー)が11秒9、11秒8の日本新を連発し、21日の女子200mでは小林裕子(中央発条)が24秒8の日本新。4月29日の東京選手権(国立)では女子走幅跳で伊藤文子(リッカー)が6m11の日本新を樹立した。

 9月24日には一般対学生が発展的に解消する形で第1回実業団対学生(小田原)がスタート。11月2日にはローマ五輪男子走高跳銀メダルのワレリー・ブルメルらを招いて日ソ交歓陸上を開いた。

 6月25日の日本選手権兼毎日マラソン(大阪)ではローマ五輪金メダルのアベベ・ビギラ(エチオピア)が招待され、気温26度、湿度77%の悪条件のなか、2時間29分27秒で優勝した。

混乱の第4回アジア大会、金メダル18個

 1962年(昭和37年)の3月、オリンピック選手強化委員長に田島直人氏、委員長を務めていた南部忠平氏は強化副本部長兼企画室長に、企画室長の菅沼俊哉氏が強化本部員に移動。・3月には世界的な中長距離のコーチ、アーサー・リディアード氏(ニュージーランド)を招いた。同氏の「マラソン・トレーニング方式」は日本のマラソンの発展に大きく寄与。高橋進氏、中村清氏らはニュージーランドをたびたび訪れ、理論を吸収した。

 3月17、18には第2回NHK室内競技兼日本室内選手権(東京体育館)を開催。880ヤード(約800m)でローマ五輪800m王者ピーター・スネル(ニュージーランド)が1分49秒9の世界最高をマークした。スネルはリディアード氏が指導する選手の一人。3月27日からは中距離の森本葵、長距離の横溝三郎(ともにリッカー)を西ドイツ留学に、7月4日からは競歩の成田勘四郎コーチと3選手を欧州にそれぞれ派遣した。7月7、8日には全米女子選手権(ロサンゼルス)に依田郁子(リッカー)ら5選手が参加。堤絹子(日立)が走高跳に1m60で優勝した。8月7日にはオリンピック選手強化トレーニングセンターを長野県霧ヶ峰に設置するなど、強化態勢の整備も進んだ。

 8月24日~9月4日には第4回アジア競技大会がインドネシアのジャカルタで開催された。大会に先立ち、7月13日から3日間、新設の神奈川県営藤沢競技場で行われた最終予選会では、男子の400mで早瀬公忠(中京大)が47秒4、400mハードルの飯島恵喜(大昭和)が51秒1、棒高跳で山崎国明(東急)が4m50、砲丸投で糸川照雄(中大)が15m60、十種競技で鈴木章介(大昭和)が6452点のそれぞれ日本新を樹立。100mでは高校生の飯島秀雄(目黒高・東京)が10秒5の高校タイをマークするなど、期待が高まっていた。

 陸上は8月24~30日に実施され、日本は田島直人監督以下、46選手(男子31、女子15)が参加。男子11、女子7の計18種目で金メダルを獲得した。

 男子は800mの森本葵(リッカー)が1分52秒6で勝ち、400mハードルは大串啓二(旭化成)が52秒2、飯島恵喜(大昭和)が52秒4で1、2位を占めた。マラソンの長田正幸(八幡製鉄)は2時間34分54秒2で優勝。走高跳の杉岡邦由(日大)は2m08で制した。このほかの跳躍3種目は日本勢が1、2位を占め、棒高跳はともに4m40で盛田久生(日立)が金、山崎国昭(東急)が銀。走幅跳は岡崎高之(八幡製鉄)が7m41、小田海平(四日市高教)が7m35、三段跳は日本選手団主将の桜井孝次(日立)が15m57、太田富夫(大昭和)が15m37を跳んだ。投てきも強さを発揮し、砲丸投の糸川照雄(中大)は15m57、円盤投の梁川昌三(日大)は47m71、ハンマー投の岡本登(旭化成)は63m88、やり投の三木孝志(東急)は74m56で頂点に立った。

 女子では800mの田中千鶴子(愛知学芸大)が2分18秒2で優勝し、平野柳子(東急)は2分18秒4で2位。80mハードルは依田郁子(リッカー)が11秒5で快勝し、島田紀代子(中大)は11秒9で3位になった。走高跳の堤絹子(日立)は1m60で金。走幅跳の岸本幸子は5m75、伊藤文子(リッカー)は5m71で1、2位独占した。砲丸投は小保内聖子(リッカー)が14m04、松田靖子(大昭和)が13m71、円盤投は村瀬慶子(日大)が45m90、小保内が40m98、やり投は佐藤弘子が48m15、阿倍藤江(ともにリッカー)は47m34でそれぞれ金、銀メダルを占めた。

 このほか、男子の1500mでは岩下察男(中大)が3分51秒5の日本新で3位。3000m障害では横溝三郎(リッカー)が8分58秒8で2位、奥沢善二(東急)は3位に入った。110mハードルの安田寛一(八幡製鉄)は予選、決勝とも14秒4の日本記録で3位。400mの早瀬公忠(中京大)が48秒3で3位。十種競技の鈴木章介(大昭和)は6195点で2位だった。注目された目黒高の飯島は100mで後半伸びず10秒7の4位。200mは21秒5で銀メダルを得た。リレーは4×100m(浅井、田村、岡崎、飯島)は41秒3でフィリピンと同タイムの2位。4×400m(大串、飯島、森本、早瀬)は3分14秒6で3位だった。

 女子では100mで11秒8の日本記録を持つ依田に期待がかかったが、12秒3で2位。井口任子(リッカー)も同タイムで3位になった。200mは山崎晴子(大昭和)が25秒7で2位。4×100mリレー(山崎、井口、島田、依田)は48秒6で銀メダルだった。

スポーツと政治、大会後も大揺れ

 この大会は「スポーツと政治」問題が表面化し、混乱した大会としても歴史に残る。発端はアラブ諸国や中国との連携を図る開催国のインドネシアが、政治と宗教上の理由からアジア競技連盟(AGF)に加盟しているイスラエル、台湾に招待と入国査証の代わりとなる身分証明(IDカード)を発行しなかったことによる。事実上の参加拒否の行動を把握した国際陸連(IAAF)はジャカルタ大会に参加した国・地域は資格停止処分とする通達を出した。国際オリンピック委員会(IOC)も「参加資格のある国が参加できない大会は正式な競技大会として認めることはできない」と表明した。

 日本は2年後に控える東京五輪開催への影響を考え、「参加すべきか」「引き揚げるべきか」で苦慮。日本が不参加を表明するとアジア競技大会は崩壊し、インドネシアの対日感情の悪化は両国の外交問題に発展する可能性が高かった。一方で大会に参加してIOCやIAAFから処分を受けた場合、東京五輪の開催に大きな影響を及ぼしかねない。

 陸連としては情報が錯綜して現地の事情がわからず、ジャカルタに滞在していた青木半治理事長に判断を委ねた。青木氏は日本選手団本部の総務主事として大会に参加しており、土壇場まで参加の是非を巡って苦悩した末に参加に踏み切った。

 大会後の、9月17、18日にベオグラードで開かれたIAAF総会で、アジア競技大会の陸上を単なる国際競技会とし、参加国は3ヵ月以内にそれを確認しなくてはならないとの決定を行い、インドネシアにはペナルティーが科せられた。この総会にオリンピック準備本部長の青木半治氏らを派遣し、陸上の競技日程は1964年10月15日~10月21日の8日間、マラソン、50km競歩は甲州街道コース、走路、助走路はレッドシンダー(アンツーカ)舗装とすることなど、準備状況を報告した。9月28日にはアジア競技大会の混乱の責任をとって織田幹雄強化本部長、青木半治理事長、安田誠克常務理事兼秘書が辞表を提出したが、10月11日の全国理事会で全員留任となった。

 日本オリンピック委員会(JOC)では9月25日に「アジア競技連盟の憲章に違反するものになったのは遺憾である。悪念された事態を研究し尽くさず選手団を送り、措置に不手際が多く、各方面に論議を巻き起こしたことについては強く反省する」との統一見解を発表。9月28日にはJOCの津島寿一委員長、田畑政治総務主事はそれぞれの役職を辞任。11月28日の日本体協評議員会では津島氏が会長を辞任した。

 インドネシアのオリンピック委員会は、IOCから資格停止処分を受け、これに対してIOCから脱退。1963年11月にIOC非加盟国を含む新興国競技大会(GANEFO)を自国で開催した。非加盟国と競技をしたことはルールに反するとの立場から、IAAFや国際水泳連盟など複数の競技団体はGANEFO参加選手の資格を停止。IOCもこうした動きを支持するという通達を各オリンピック委員会(NOC)に発した。

 東京五輪への参加を熱望していたインドネシアは、IOCの規則遵守を前提に、1964年6月のIOC理事会において資格停止処分が取り消されたが、IAAFと国際水連はGANEFO出場選手の資格停止を維持。インドネシアは資格停止中の選手を含めた選手団を決定し、同年9月末に来日したが資格のない選手は選手村に入れず、一行は約2週間の待機後、10月10日の開会式当日に東京を離れた。北朝鮮もIAAFが資格停止処分に関する決定を覆さない限り、東京五輪をボイコットすると表明し、一旦は来日しながら全選手が引き揚げている。

東京五輪前年、選手飛躍

 1963年(昭和38年)、強化に励む選手は翌年に迫った東京五輪に向けて飛躍する。2月17日の第11回別府大分マラソンで寺沢徹(クラレ)が2時間15分15秒8の世界最高。ローマ五輪でアベベ・ビギラ(エチオピア)が出した2時間15分16秒2を3年ぶりに塗り替えた。8月24日には円谷幸吉(自衛隊)がニュージーランド・オークランドでの20000mで2着ながら59分51秒4の世界新をマークしている。

 8月30日~9月8日(陸上は9月5~8日)にブラジルのポルトアレグレで行われた第3回ユニバーシアードでは、男子800mで森本葵(リッカー)が1分48秒1の日本新、同三段跳で下哲(早大)が15m99でそれぞれ優勝した。森本は1500mでは3分49秒6の日本新で2位に入った。

 10月12~15日には東京五輪のリハーサルとして東京国際スポーツ大会(国立)を日本選手権も兼ねて開催。日本勢は女子80mハードルの依田郁子(リッカー)が10秒7で優勝。準決勝では10秒6の日本新を出した。男子1500mでは岩下察男(中大)が3分46秒0の日本新で2位になり、5000mの円谷幸吉が14分14秒0(5位)、女子やり投の佐藤弘子(リッカー)が52m98(3位)など、日本記録ラッシュとなった。

 円谷は10月末の山口国体で、5000mの日本記録を14分08秒6に更新。11月10日のオリンピック候補記録会(福岡・鞘ケ谷)では男子10000mで船井照夫(東急)が29分06秒6、女子やり投の佐藤が53m02の日本新を出した。

 この年、日本陸連の副会長に浅野均一、加藤英夫、河野謙三、五島昇、水上達三の5氏が就いた。4月1日には文部省体育局にオリンピック課設置(1965年3月末日までの予定)。7月には欧米の施設、競技会運営・選手強化など視察の目的で井手口仁氏、藤枝昭英氏(ソ連、米国)、保坂周助氏、朝隈善郎氏(欧州)、久内武氏、西内文夫氏(欧州選手権)を派遣した。

記事提供:月刊陸上競技