日本陸上競技連盟史
東京五輪:1964年度
1964年度
昭和39年4月~昭和40年3月
東京五輪へ秒読み、好記録続く
東京五輪イヤーを迎え、10月10日の開幕に向けた秒読みが始まるなか、日本の選手は好パフォーマンスを見せた。
3月20日の中日マラソン(名古屋)ではトラックを本職としていた円谷幸吉(自衛隊)が初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位になり、マラソンで開花の可能性を見せる。4月12日には五輪最終予選として第19回毎日マラソンが五輪と同じ甲州街道のコースで行われ、君原健二(八幡製鉄)が2時間17分11秒4で優勝し、円谷が2時間18分20秒2で2位になった。3位には2時間19分43秒0で寺沢徹(倉レ)が入り、この3人が代表に決まった。
この年は秋に五輪が開催されるため、第19回国体(新潟)は6月6~11日に実施され、男子5000mでは円谷が14分02秒2の日本新を出した。
6月11~14日に西ドイツで行われた招待大会で男子100mの飯島秀離(早大)が10秒1をマークし、吉岡隆徳が1935年に出した10秒3の日本記録を29年ぶりに塗り替えた。800mでは森本葵(リッカー)が1分47秒4、1500mの猿渡武嗣(中大)が3分44秒8、3000mの岩下察男(担化成)が8分10秒8のいずれも日本新をマークした。
6月28日には陸連事務局がお茶の水から渋谷区神南の岸記念体育会館内に移転。7月10日に岸記念体育会館落成式が実施された。
第48回日本選手権は7月3~5日に国立競技場で五輪代表最終選考会として実施。男子400mは早瀬公忠(八幡製鉄)が47秒2、棒高跳は大坪高士(日立)が4m70の日本新をそれぞれ樹立した。
8月27日にはオリンピック候補記録会(北海道・札幌)の男子10000mで円谷幸吉(自衛隊)が28分52秒6の日本新。29日に倉敷で行われた同様の記録会では5000mで岩下が日本人初の13分台突入を果たす13分55秒0をマークした。9月13日の福岡県民大会では女子走幅跳で大阪インターハイ優勝の香丸恵美子(三潴高・福岡)が6m17の日本新を樹立。各所でレベルアップが進んだ状態で、東京五輪に向かうことになった。
東京五輪開幕、マラソン円谷が銅、入賞2、ローマの不振ぬぐえず
第18回夏季オリンピック東京大会は10月10日、雲ひとつない秋晴れの下、国立競技場で開会式が行われた。開催予定だった1940年は戦争のため中止となり、24年後のこの日、アジアで初めての五輪が幕を開けた。
入場行進に続き、昭和天皇が開会を宜言。広島県三次市出身で広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた坂井義則(早大競走部)が聖火の最終ランナーを務め、午後3時7分、高々と掲げたトーチから聖火台に点火した。約8000羽の平和のハトが舞い、ブルーインパルスが鮮やかに五輪のマークを青空に描いた。
陸上は国立競技場を中心に開催。男子24種目、女子12種目が行われた。女子は五輪で初めて400m、五種競技が採用された。日本は織田幹雄総監督、南部忠平監督、田島直人ヘッドコーチ以下、68選手(男子52、女子16)の大選手団を形成し、ほとんどの種目に出場した。
円谷幸吉(自衛隊)は男子マラソンで銅メダルを獲得し、10000mでも6位入賞。女子80mハードルの依田郁子(リッカー)は5位となったが、メダル1、入賞2にとどまった。日本選手団全体では金16、銀5、銅8のメダルを獲得。5階級を制したレスリング、5個の金メダルを量産した体操男子、3階級で優勝した柔道などと比べても、陸上チームの成績は決して期待通りとは言えないものだった。織田総監督は「円谷幸吉選手は自衛隊の哲理に心の支えを求め、依田郁子選手は練習を通じて自らの心の支柱を発見した。他の選手のほとんどは、それがなかった」とのコメントを残している。
円谷が10000mで6位入賞
競技は10月14日に始まった。あいにくの雨。男子100m1次予選1組に飯島秀雄(早大)が出場。抜群のスタートダッシュで10秒3(+0.3)の1着となり、スタンドが沸き立った。蒲田勝(東急)は10秒9(-0.8)の4組6着で落選。2次予選の飯島は後半追い込まれ、フィニッシュ後転倒したものの、10秒5(+1.0)の3組3着で通過した。
女子走幅跳は岸本幸子(日立)、香丸恵美子(三潴高)が予選に出場。それぞれ5m87(+2.1)、5m66(+1.8)と実力を発揮できず、決勝に進めなかった。決勝は、メアリー・ランド(英国)が1.6mの向かい風をついて6m76の世界新で優勝した。
男子やり投は雨と寒さで予選通過ラインの77m00を超えたのは1人。続く記録上位11人が決勝に進んだが、三木孝志(東急)は68m70、金井秀太(日立)が65m85と、12番目の72m31に及ばず落選した。優勝はパウリ・ネバラ(フィンランド)で82m66。
400mハードル予選で2組の油井潔雄(中大)は54秒7の7着、4組の大串啓二(旭化成)は53秒6の5着、5組の飯島恵喜(大昭和)は52秒8の5着と、実力を出せずに落選した。レックス・コーリー(米国)が49秒6で勝った。
男子800m予選。大会前に日本記録を出し、期待された森本葵(リッカー)が出場した。8月に西ドイツから帰国後に急性肝炎を患い、状態は万全ではない。それでも1分49秒9の6組3着で準決勝に進んだ。
男子10000m決勝は午後4時05分から38選手で争われた。日本は円谷幸吉(自衛隊)、船井照夫(東急)、渡辺和己(九州電工)が出場。レース序盤は世界記録保持者のロン・クラーク(豪州)がハイペースで先頭集団を引っ張る。5000mは14分04秒6で通過した。円谷も臆することなく食らいついたが、6000m付近で先頭からは離れた。円谷は終盤、レオニード・イワノフ(ソ連)と5位争いを展開。最後は6秒2差をつけられたものの、28分59秒4で6位入賞を果たした。この種目の入賞はベルリン五輪の村社講平以来。船井は29分33秒2で14位、渡辺は31分00秒6の28位だった。
優勝は伏兵ビリー・ミルズ(米国)で28分24秒4の五輪新をマーク。ラスト1周の鐘が鳴り、バックストレートでモハメド・ガムーディ(チュニジア)がミルズとクラークの間を割って抜け出し、クラークが追走する。争いはこの2人に絞られたと思われたが、フィニッシュ前の直線、ラスト50mでミルズが驚異的なラストスパートで大逆転。五輪史上に残る番狂わせを演じ、この種目の米国勢初優勝を果たした。4位までが従来の五輪記録を上回った。
100m飯島、決勝ならず
第2日(10月15日)は女子走高跳の鳥居充子(東急)が1m60で予選落ち。通過記録は1m70で自身の日本記録と同じだったが10cm及ばなかった。ヨランダ・バラシュ(ルーマニア)が1m90を跳び、自己の五輪記録を更新して2連覇した。
男子円盤投の予選は55m00が通過記録。金子宗平(リッカー)は46m46と遠く及ばなかった。決勝ではアル・オーター(米国)が61m00で、3連覇を達成した。
女子400mは予選1組の小川清子(長良高)は57秒6の5着で準決勝へ進んだ。
男子棒高跳の予選は4m60が通過ライン。盛田久生(日立)、鳥居義正(東教大)は4m40、大坪政士(日立)は4m20にとどまり、3人とも落選した。17日の決勝では、フレッド・ハンセン(米国)が5m10で勝った。
男子100m準決勝で期待の飯島秀雄(早大)は50mまではトップ。観衆を総立ちにさせたが、後半フォームを乱して順位を落とし、10秒6(-1.2)の7着で決勝に進めなかった。決勝ではボブ・ヘイズ(米国)が「弾丸」と呼ばれたパワフルな走りとスピードで2位を2mほど引き離して圧勝した。10秒0(+1.1)の世界タイだった。この時のタイムは五輪で初めて使用した電気計時の記録を、当時の方式で10分の1秒までを表示する手動記録へ換算した値。ヘイズの優勝タイムは電気計時では10秒06だった。公式記録はここから0.05秒を差し引いた10秒01から100分の1秒単位を切り捨て、10秒0と発表された。バックアップで使用した手動計時では9秒9で、従来の計時法なら「人類初の9秒台」が実現するところだった。
男子800mで準決勝1組の森本葵(リッカー)は、後半のスピードの切り替えに切れ味がなく1分47秒7の6着で落選した。体調は万全ではないながら自己の日本記録まで0.3秒に迫る戦いぶりだった。翌日の決勝では、ピーター・スネル(ニュージーランド)が1分45秒1で優勝した。
男子3000m障害予選1組の奥沢善二(東急)は8分50秒0の5着、2組の猿渡武嗣(中大)は8分46秒6の7着、3組の横溝三郎(リッカー)は9分04秒6の9着と、3人とも力を出せずに落選した。ガストン・ローランツ(ベルギー)が8分30秒8で制した。
男子20km競歩は神宮外苑コースで行われた。ケネス・マシューズ(英国)が1時間29分34秒0でテープを切った。石黒昇(東京貯金局)は1時間39分40秒で23位、栗林喜右衛(八戸自衛隊)が1分43秒07で25位、内藤靖雄(東洋工業)は失格となった。第2日の日本は期待された種目を含めて振るわなかった。
伝統の三段跳、入賞届かず
第3日(10月16日)の女子やり投の予選の1投目にエレーナ・ゴルチャコワ(ソ連)が62m40の世界新記録を投げた。予選通過ラインの51m00を越えたのは7人のみ。佐藤弘子(リッカー)は49m92の9位、片山美佐子(帝人松山)は49m23の11位で通過した。決勝で佐藤は2投目に52m48を投げたが、1m23の差でベスト6に残れず7位。片山は46m87で11位だった。17歳のミハエラ・ペネス(ルーマニア)が60m54で優勝し、ゴルチャコワは57m06で3位だった。
男子三段跳予選で岡崎高之(八幡製鉄)が16m05で通過ラインの15m80を突破。脚の故障で桜井孝次(日立)は15m59にとどまり、太田富夫(大昭和)は記録なしだった。期待された決勝で岡崎は1回目15m69、2回目ファウル、3回目も16mに乗らず、15m90。上位6人に入れず、10位に終わった。戦後に日本は7人の16mジャンパーを出したが、1952年ヘルシンキ大会の沢田文吉の6位以来の入賞に届かなかった。ヨゼフ・シュミット(ポーランド)が16m85で金メダル。
男子5000mの予選4組で岩下察男(旭化成)は残り1000mで遅れ、14分18秒4の6着で落選した。ロバート・シュール(米国)が13分48秒8で制した。
日本が出場していない女子100mはワイオミア・タイアス(米国)が11秒4(-1.2)で優勝した。
第4日(10月17日)の400m予選4組の早瀬公忠(八幡製鉄)は48秒5の6着で落選。優勝はマイケル・ララビー(米国)で45秒1。
ハンマー投の菅原武男(リッカー)は予選の1投目に63m84を投げ、63m00の通過ラインを突破したが、笠原章平(東急)は61m87、岡本登(旭化成)は61m51で落選した。
男子200mはエントリーしていた飯島秀雄(早大)が棄権。ヘンリー・カー(米国)が20秒3(-0.7)で1位になった。
砲丸投の糸川照雄(東急)は15m84で予選通過の17m80に届かず、決勝に進めなかった。ダラス・ロング(米国)が20m33で制した。
女子400m準決勝で小川清子(長良高)は57秒1の1組8着で落選した。ベティ・カスバート(豪州)が52秒0で優勝した。1956年メルボル五輪は100m、200m、4×100mリレー3冠。1960年ローマ五輪後に引退したが、競技に復帰し、400mで4つ目の金メダルを得た。
16、17日に行われた五種競技で高橋美由紀(片山女高・岡山)は3914点で18位。イリーナ・プレス(ソ連)が5246点の世界新で勝った。
男子110mハードルは予選1組で安田寛一(八幡製鉄)が14秒5(-1.7)で3着に入り、通過。5組の田中章(名鉄)は組み合わせの悪さも響き、14秒5(-1.8)の6着で落選した。
依田、満足感にじむ5位入賞
第5日(10月18日)の午前は豪雨に見舞われ、午後4時過ぎになってようやく雨が上がった。女子200mの予選6組で伊沢まき子(高畠高)は25秒4(+4,1)の5着で落選。エディス・マクガイヤー(米国)が23秒0(+0.8)で勝った。
男子110mハードル準決勝2組で安田寛一(八幡製鉄)は雨の中、中盤までトップを争ったが後半に順位を落とし、14秒3(+0.3)の7着で及ばず。日本記録とは0.1秒遅れだった。ヘイズ・ジョーンズ(米国)が13秒6(+2.0)で制した。
ハンマー投決勝に臨んだ菅原武男(リッカー)はファウル、62m66、63m69のシリーズで13位。ベスト6に残れなかった。優勝はロムアルド・クリム(ソ連)で69m74。
男子走幅跳の予選は強い雨と向かい風、助走路も軟弱、条件は最悪だった。7m60の通過ラインを超えたのは6人。山田宏臣(東急)は7m46(-4.4)、全体の12番目で決勝に進んだ。河津光朗(日本レーヨン)は7m28(+0.4)、高柳慧(リッカー)は7m15(-2.9)で落選。決勝で山田は6m94、ファウル、7m16(-2.9)と伸びなかった。ベスト6に残れず、9位だった。リン・デーヴィス(英国)が5回目に8m07を跳んで金メダル。
男子50km競歩は雨の中、12時20分スタート。20kmで斎藤和夫(倉庫精練)は前半は上位争いを展開したが、後半に順位を落とし、4時間43分01秒0の25位。追い上げた江尻忠正(日本ゼオン)が4時間37分31秒8で22位。三輪寿美雄(旭化成)は4時間52分00秒6で27位だった。優勝はアブドン・パミッチ(イタリア)で4時間11分12秒4。
女子80mハードルで予選4組の依田郁子(リッカー)は好スタートを切り、10秒7(+4.2)の2着で通過した。
第6日(10月19日)は依田郁子(リッカー)が出場している女子80mハードルは準決勝、決勝が行われた。午後2時からの準決勝2組、依田は集中力を高めてスタートについた。外国選手が交互に何度もフライングをして周囲を揺さぶり、怒った依田は「いいかげんにしろ」と日本語で叫んだという。鋭い出だしでトップを争ったまま10秒7(+1.8)の2着。5着まで同タイムの接戦で、決勝進出を決めた。
決勝は午後3時20分。依田が国立競技場に姿を現すと異様などよめきが起こった。麦わら帽子、その下に白いハチマキ、大きなサングラス。こめかみの両側には白いサロメチールがべったり塗られていた。芝生に寝転ぶと後ろ向きに逆立ち。竹ぼうきで自分のコースを掃き清めた。心を静めるためのいつも通りの大切な儀式。そしてスタートについた。
抜群の飛び出しとは言えなかったがトップを切る。ハードル上で身体が浮き、5台目で5番手。必死に追ったが10秒7(+2.3)の5位でフィニッシュした。陸上の女子ではこの大会ただ1人の入賞。メダルには届かなかったものの、表情には力を出した満足感がにじんだ。女子トラック種目の入賞は1928年アムステルダム五輪の人見絹枝以来だった。東西統一の選手団を形成したドイツのカリン・バルツァーが10秒5で金、テレサ・チェブラ(ポーランド)が10秒5で2位、パム・キルボーン(豪州)が 10秒5で3位だった。
女子円盤投の予選で横山弘子(リッカー)は47m18と、通過ラインの50m00に届かなかった。優勝はタマラ・プレス(ソ連)で57m27。
男子1500mの予選4組で山口東一(東急)は3分56秒7の10着で落選。ピーター・スネル(ニュージーランド)が3分38秒1で快勝し、800mとの2冠を果たした。
第7日(10月20日)の女子800mは予選3組で木崎正子(中大)は2分18秒6の7着で落選した。決勝は、アン・パッカー(英国)が2分01秒1の世界新で優勝した。
女子砲丸投の予選で15m24の日本記録を持つ小保内聖子(リッカー)は13m70にとどまり、予選通過の15m00に届かなかった。優勝はタマラ・プレス(ソ連)で18m14。
19、20日に実施された十種競技はウィリー・ホルドルフ(ドイツ)が7887点で優勝した。前回銀メダルで注目された楊伝広(台湾)は5位。鈴木章介(大昭和)は6838点で15位にとどまった。
女子4×100mリレーで予選2組の日本(江副令子、依田郁子、宮本悦子、井口仁子)は47秒0で6着、決勝進出はならなかった。ポーランドが43秒6(世界新)で勝った。
男子4×100mリレー予選2組で日本(飯島秀雄、蒲田勝、浅井浄、室洋二郎)は2、3走のバトンパスで失敗し、41秒0の6着となったが「プラス1」に入って突破した。準決勝は同じオーダーで2組に出場。2走から後退し、40秒6の8着で落選した。米国が、アンカーのヘイズが4人抜きの激走で39秒0の世界新をマークし、金メダルを得た。
男子走高跳は予選で杉岡邦由(八幡製鉄)が2m00、宮崎欣也(大昭和)が1m90にとどまり、落選した。ワレリー・ブルメル(ソ連)が2m18で優勝した。
頼みのマラソン、ついにメダル
メダルがないまま、競技最終日(第8日=10月21日)を迎えた。最後の頼みは男子マラソン。日本は君原健二(八幡製鉄)、円谷幸吉(自衛隊)、寺沢徴(倉レ)が出場した。午後1時スタート。気温18度、湿度75%、薄曇り、絶好のコンディション。68人が参加して争われた。
ロン・クラーク(豪州)が引っ張り、前回のローマ五輪王者アベベ・ビキラ(エチオピア)、ジム・ホーガン(英国)らと先頭集団を形成し、10kmは30分14秒で通過するハイペースの展開。円谷は13位、君原は19位、寺沢は24位。先頭は15kmを45分35秒で通過した時点で後続に約1分差をつけた。20kmはアベベが1時間00分58秒でトップを快調に飛ばし、ホーガンに5秒差、クラークは遅れた。
甲州街道の調布市飛田給を折り返すとアベベが独走態勢。30kmは1時間32分50秒。ホーガンとの差は40秒に開いた。順位を上げていた円谷はクラークを抜き、ヨージェフ・シュトー(ハンガリー)とともに3位争いに浮上。35kmでアベペは1時間32分01秒、円谷、シュトーはホーガンに17秒差に迫り、その後、ホーガンが失速。シュトーも離れ、円谷は2番手となった。
40㎞でアベベは2位の円谷に3分の大差をつけ、3位にはベーシル・ヒートリー(英国)が浮上。円谷には1分差まで迫り、神宮外苑に入ってヒートリーがスピードを上げて円谷との差をさらに縮める。
競技場を出る時は最後尾にいたがアベべが悠然とトップで場内に姿を現し、2時間12分11秒2の世界最高で圧勝。4年前のローマ大会では裸足で走り、東京ではシューズを履いてマラソンで史上初の2連覇を達成した。盲腸の手術からわずか35日目とは思えない超人的な強さ。フィニッシュ後、まるで何事もなかったように柔軟体操を始め、芝生に寝転んで空に向かって自転車をこぐような動作もした。「あと20kmは走れる。ライバルがいれば、もっといいタイムが出せた」と言った。
アベベのフィニッシュからしばらくして円谷が戻ってきた。7万5000人の大観衆は大いに沸いた。だが、10m後方にはヒートリーがいる。ぐんぐん差が詰まり、疲労の色が濃い円谷に突き放す余力はなかった。残り200m、ヒートリーは円谷を抜き去る。円谷は3位で崩れ落ちるようにフィニッシュ。それでも2時間16分22秒8で堂々の銅メダル。能力の高さは認められてもマラソンではキャリア不足が心配された円谷だったが、陸上で戦後初のメダルをもたらしたがんばりに、日本中が感動に震えた。ヒートリーは2時間16分19秒2。エチオピアの国旗を中央に、左に英国、右に日の丸が掲揚され、秋の空にはためいた。
金メダルの期待もあった君原は2時間19分49秒0で8位、寺沢は2時間23分09秒0で15位に終わったが、円谷の奮闘で地元開催の五輪でメダルなしの危機を乗り越えた。陸上の日本男子は、10000mでも入賞した円谷の独り舞台だったと言える。円谷は「(3位は)夢にも思っていませんでした。でも、アベベさんともう一度やりたい」と会見で語った。だが、その栄光は暗転する。メキシコ五輪が開かれる1968年1月、「もう走れません」という遺書を残して自ら27歳の命を絶った。
12年後見据えて出直し、長期強化計画策定
東京五輪の陸上は、入賞なしのローマ五輪の惨敗をぬぐい去る成績とは遠いものとなった。12月11日の陸連常務理事会では今後3回の五輪を展望した12ヵ年の長期強化計画を決定した。4年に1回の五輪に向けた対策を立てる一方、最終の目標を12年後の五輪に置き、小中学生の育成を重要視。こうした観点から競技人口の増加、優秀なコーチの育成、基礎体力の養成に重点を置くことなどを前面に押し出し、巻き返しを期すことになった。
12月6日の朝日国際マラソン(福岡)では東京五輪15位の寺沢徹(倉レ)が「2時間20分が切れなかったらやめよう」と引退をかけてスタートラインに立ち、2時間14分48秒2の日本最高を樹立した。
1965年(昭和40年)1月21日には全国理事会で春日弘会長が辞意を表明。3月6日には春日氏が名誉会長となり、後任に河野一郎氏が就任した。3月7日には陸連の機構を3局1本部制とし、強化本部長に大島鎌吉氏が就任した。
記事提供:月刊陸上競技
昭和39年4月~昭和40年3月
東京五輪へ秒読み、好記録続く
東京五輪イヤーを迎え、10月10日の開幕に向けた秒読みが始まるなか、日本の選手は好パフォーマンスを見せた。
3月20日の中日マラソン(名古屋)ではトラックを本職としていた円谷幸吉(自衛隊)が初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位になり、マラソンで開花の可能性を見せる。4月12日には五輪最終予選として第19回毎日マラソンが五輪と同じ甲州街道のコースで行われ、君原健二(八幡製鉄)が2時間17分11秒4で優勝し、円谷が2時間18分20秒2で2位になった。3位には2時間19分43秒0で寺沢徹(倉レ)が入り、この3人が代表に決まった。
この年は秋に五輪が開催されるため、第19回国体(新潟)は6月6~11日に実施され、男子5000mでは円谷が14分02秒2の日本新を出した。
6月11~14日に西ドイツで行われた招待大会で男子100mの飯島秀離(早大)が10秒1をマークし、吉岡隆徳が1935年に出した10秒3の日本記録を29年ぶりに塗り替えた。800mでは森本葵(リッカー)が1分47秒4、1500mの猿渡武嗣(中大)が3分44秒8、3000mの岩下察男(担化成)が8分10秒8のいずれも日本新をマークした。
6月28日には陸連事務局がお茶の水から渋谷区神南の岸記念体育会館内に移転。7月10日に岸記念体育会館落成式が実施された。
第48回日本選手権は7月3~5日に国立競技場で五輪代表最終選考会として実施。男子400mは早瀬公忠(八幡製鉄)が47秒2、棒高跳は大坪高士(日立)が4m70の日本新をそれぞれ樹立した。
8月27日にはオリンピック候補記録会(北海道・札幌)の男子10000mで円谷幸吉(自衛隊)が28分52秒6の日本新。29日に倉敷で行われた同様の記録会では5000mで岩下が日本人初の13分台突入を果たす13分55秒0をマークした。9月13日の福岡県民大会では女子走幅跳で大阪インターハイ優勝の香丸恵美子(三潴高・福岡)が6m17の日本新を樹立。各所でレベルアップが進んだ状態で、東京五輪に向かうことになった。
東京五輪開幕、マラソン円谷が銅、入賞2、ローマの不振ぬぐえず
第18回夏季オリンピック東京大会は10月10日、雲ひとつない秋晴れの下、国立競技場で開会式が行われた。開催予定だった1940年は戦争のため中止となり、24年後のこの日、アジアで初めての五輪が幕を開けた。

東京五輪 開会式 ©フォート・キシモト
入場行進に続き、昭和天皇が開会を宜言。広島県三次市出身で広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた坂井義則(早大競走部)が聖火の最終ランナーを務め、午後3時7分、高々と掲げたトーチから聖火台に点火した。約8000羽の平和のハトが舞い、ブルーインパルスが鮮やかに五輪のマークを青空に描いた。
陸上は国立競技場を中心に開催。男子24種目、女子12種目が行われた。女子は五輪で初めて400m、五種競技が採用された。日本は織田幹雄総監督、南部忠平監督、田島直人ヘッドコーチ以下、68選手(男子52、女子16)の大選手団を形成し、ほとんどの種目に出場した。
円谷幸吉(自衛隊)は男子マラソンで銅メダルを獲得し、10000mでも6位入賞。女子80mハードルの依田郁子(リッカー)は5位となったが、メダル1、入賞2にとどまった。日本選手団全体では金16、銀5、銅8のメダルを獲得。5階級を制したレスリング、5個の金メダルを量産した体操男子、3階級で優勝した柔道などと比べても、陸上チームの成績は決して期待通りとは言えないものだった。織田総監督は「円谷幸吉選手は自衛隊の哲理に心の支えを求め、依田郁子選手は練習を通じて自らの心の支柱を発見した。他の選手のほとんどは、それがなかった」とのコメントを残している。

円谷幸吉 ©フォート・キシモト
円谷が10000mで6位入賞
競技は10月14日に始まった。あいにくの雨。男子100m1次予選1組に飯島秀雄(早大)が出場。抜群のスタートダッシュで10秒3(+0.3)の1着となり、スタンドが沸き立った。蒲田勝(東急)は10秒9(-0.8)の4組6着で落選。2次予選の飯島は後半追い込まれ、フィニッシュ後転倒したものの、10秒5(+1.0)の3組3着で通過した。
女子走幅跳は岸本幸子(日立)、香丸恵美子(三潴高)が予選に出場。それぞれ5m87(+2.1)、5m66(+1.8)と実力を発揮できず、決勝に進めなかった。決勝は、メアリー・ランド(英国)が1.6mの向かい風をついて6m76の世界新で優勝した。
男子やり投は雨と寒さで予選通過ラインの77m00を超えたのは1人。続く記録上位11人が決勝に進んだが、三木孝志(東急)は68m70、金井秀太(日立)が65m85と、12番目の72m31に及ばず落選した。優勝はパウリ・ネバラ(フィンランド)で82m66。
400mハードル予選で2組の油井潔雄(中大)は54秒7の7着、4組の大串啓二(旭化成)は53秒6の5着、5組の飯島恵喜(大昭和)は52秒8の5着と、実力を出せずに落選した。レックス・コーリー(米国)が49秒6で勝った。
男子800m予選。大会前に日本記録を出し、期待された森本葵(リッカー)が出場した。8月に西ドイツから帰国後に急性肝炎を患い、状態は万全ではない。それでも1分49秒9の6組3着で準決勝に進んだ。
男子10000m決勝は午後4時05分から38選手で争われた。日本は円谷幸吉(自衛隊)、船井照夫(東急)、渡辺和己(九州電工)が出場。レース序盤は世界記録保持者のロン・クラーク(豪州)がハイペースで先頭集団を引っ張る。5000mは14分04秒6で通過した。円谷も臆することなく食らいついたが、6000m付近で先頭からは離れた。円谷は終盤、レオニード・イワノフ(ソ連)と5位争いを展開。最後は6秒2差をつけられたものの、28分59秒4で6位入賞を果たした。この種目の入賞はベルリン五輪の村社講平以来。船井は29分33秒2で14位、渡辺は31分00秒6の28位だった。
優勝は伏兵ビリー・ミルズ(米国)で28分24秒4の五輪新をマーク。ラスト1周の鐘が鳴り、バックストレートでモハメド・ガムーディ(チュニジア)がミルズとクラークの間を割って抜け出し、クラークが追走する。争いはこの2人に絞られたと思われたが、フィニッシュ前の直線、ラスト50mでミルズが驚異的なラストスパートで大逆転。五輪史上に残る番狂わせを演じ、この種目の米国勢初優勝を果たした。4位までが従来の五輪記録を上回った。
100m飯島、決勝ならず
第2日(10月15日)は女子走高跳の鳥居充子(東急)が1m60で予選落ち。通過記録は1m70で自身の日本記録と同じだったが10cm及ばなかった。ヨランダ・バラシュ(ルーマニア)が1m90を跳び、自己の五輪記録を更新して2連覇した。
男子円盤投の予選は55m00が通過記録。金子宗平(リッカー)は46m46と遠く及ばなかった。決勝ではアル・オーター(米国)が61m00で、3連覇を達成した。
女子400mは予選1組の小川清子(長良高)は57秒6の5着で準決勝へ進んだ。
男子棒高跳の予選は4m60が通過ライン。盛田久生(日立)、鳥居義正(東教大)は4m40、大坪政士(日立)は4m20にとどまり、3人とも落選した。17日の決勝では、フレッド・ハンセン(米国)が5m10で勝った。
男子100m準決勝で期待の飯島秀雄(早大)は50mまではトップ。観衆を総立ちにさせたが、後半フォームを乱して順位を落とし、10秒6(-1.2)の7着で決勝に進めなかった。決勝ではボブ・ヘイズ(米国)が「弾丸」と呼ばれたパワフルな走りとスピードで2位を2mほど引き離して圧勝した。10秒0(+1.1)の世界タイだった。この時のタイムは五輪で初めて使用した電気計時の記録を、当時の方式で10分の1秒までを表示する手動記録へ換算した値。ヘイズの優勝タイムは電気計時では10秒06だった。公式記録はここから0.05秒を差し引いた10秒01から100分の1秒単位を切り捨て、10秒0と発表された。バックアップで使用した手動計時では9秒9で、従来の計時法なら「人類初の9秒台」が実現するところだった。
男子800mで準決勝1組の森本葵(リッカー)は、後半のスピードの切り替えに切れ味がなく1分47秒7の6着で落選した。体調は万全ではないながら自己の日本記録まで0.3秒に迫る戦いぶりだった。翌日の決勝では、ピーター・スネル(ニュージーランド)が1分45秒1で優勝した。
男子3000m障害予選1組の奥沢善二(東急)は8分50秒0の5着、2組の猿渡武嗣(中大)は8分46秒6の7着、3組の横溝三郎(リッカー)は9分04秒6の9着と、3人とも力を出せずに落選した。ガストン・ローランツ(ベルギー)が8分30秒8で制した。
男子20km競歩は神宮外苑コースで行われた。ケネス・マシューズ(英国)が1時間29分34秒0でテープを切った。石黒昇(東京貯金局)は1時間39分40秒で23位、栗林喜右衛(八戸自衛隊)が1分43秒07で25位、内藤靖雄(東洋工業)は失格となった。第2日の日本は期待された種目を含めて振るわなかった。
伝統の三段跳、入賞届かず
第3日(10月16日)の女子やり投の予選の1投目にエレーナ・ゴルチャコワ(ソ連)が62m40の世界新記録を投げた。予選通過ラインの51m00を越えたのは7人のみ。佐藤弘子(リッカー)は49m92の9位、片山美佐子(帝人松山)は49m23の11位で通過した。決勝で佐藤は2投目に52m48を投げたが、1m23の差でベスト6に残れず7位。片山は46m87で11位だった。17歳のミハエラ・ペネス(ルーマニア)が60m54で優勝し、ゴルチャコワは57m06で3位だった。
男子三段跳予選で岡崎高之(八幡製鉄)が16m05で通過ラインの15m80を突破。脚の故障で桜井孝次(日立)は15m59にとどまり、太田富夫(大昭和)は記録なしだった。期待された決勝で岡崎は1回目15m69、2回目ファウル、3回目も16mに乗らず、15m90。上位6人に入れず、10位に終わった。戦後に日本は7人の16mジャンパーを出したが、1952年ヘルシンキ大会の沢田文吉の6位以来の入賞に届かなかった。ヨゼフ・シュミット(ポーランド)が16m85で金メダル。
男子5000mの予選4組で岩下察男(旭化成)は残り1000mで遅れ、14分18秒4の6着で落選した。ロバート・シュール(米国)が13分48秒8で制した。
日本が出場していない女子100mはワイオミア・タイアス(米国)が11秒4(-1.2)で優勝した。
第4日(10月17日)の400m予選4組の早瀬公忠(八幡製鉄)は48秒5の6着で落選。優勝はマイケル・ララビー(米国)で45秒1。
ハンマー投の菅原武男(リッカー)は予選の1投目に63m84を投げ、63m00の通過ラインを突破したが、笠原章平(東急)は61m87、岡本登(旭化成)は61m51で落選した。
男子200mはエントリーしていた飯島秀雄(早大)が棄権。ヘンリー・カー(米国)が20秒3(-0.7)で1位になった。
砲丸投の糸川照雄(東急)は15m84で予選通過の17m80に届かず、決勝に進めなかった。ダラス・ロング(米国)が20m33で制した。
女子400m準決勝で小川清子(長良高)は57秒1の1組8着で落選した。ベティ・カスバート(豪州)が52秒0で優勝した。1956年メルボル五輪は100m、200m、4×100mリレー3冠。1960年ローマ五輪後に引退したが、競技に復帰し、400mで4つ目の金メダルを得た。
16、17日に行われた五種競技で高橋美由紀(片山女高・岡山)は3914点で18位。イリーナ・プレス(ソ連)が5246点の世界新で勝った。
男子110mハードルは予選1組で安田寛一(八幡製鉄)が14秒5(-1.7)で3着に入り、通過。5組の田中章(名鉄)は組み合わせの悪さも響き、14秒5(-1.8)の6着で落選した。

東京五輪ハードル競技中 ©フォート・キシモト
依田、満足感にじむ5位入賞
第5日(10月18日)の午前は豪雨に見舞われ、午後4時過ぎになってようやく雨が上がった。女子200mの予選6組で伊沢まき子(高畠高)は25秒4(+4,1)の5着で落選。エディス・マクガイヤー(米国)が23秒0(+0.8)で勝った。
男子110mハードル準決勝2組で安田寛一(八幡製鉄)は雨の中、中盤までトップを争ったが後半に順位を落とし、14秒3(+0.3)の7着で及ばず。日本記録とは0.1秒遅れだった。ヘイズ・ジョーンズ(米国)が13秒6(+2.0)で制した。
ハンマー投決勝に臨んだ菅原武男(リッカー)はファウル、62m66、63m69のシリーズで13位。ベスト6に残れなかった。優勝はロムアルド・クリム(ソ連)で69m74。
男子走幅跳の予選は強い雨と向かい風、助走路も軟弱、条件は最悪だった。7m60の通過ラインを超えたのは6人。山田宏臣(東急)は7m46(-4.4)、全体の12番目で決勝に進んだ。河津光朗(日本レーヨン)は7m28(+0.4)、高柳慧(リッカー)は7m15(-2.9)で落選。決勝で山田は6m94、ファウル、7m16(-2.9)と伸びなかった。ベスト6に残れず、9位だった。リン・デーヴィス(英国)が5回目に8m07を跳んで金メダル。
男子50km競歩は雨の中、12時20分スタート。20kmで斎藤和夫(倉庫精練)は前半は上位争いを展開したが、後半に順位を落とし、4時間43分01秒0の25位。追い上げた江尻忠正(日本ゼオン)が4時間37分31秒8で22位。三輪寿美雄(旭化成)は4時間52分00秒6で27位だった。優勝はアブドン・パミッチ(イタリア)で4時間11分12秒4。
女子80mハードルで予選4組の依田郁子(リッカー)は好スタートを切り、10秒7(+4.2)の2着で通過した。
第6日(10月19日)は依田郁子(リッカー)が出場している女子80mハードルは準決勝、決勝が行われた。午後2時からの準決勝2組、依田は集中力を高めてスタートについた。外国選手が交互に何度もフライングをして周囲を揺さぶり、怒った依田は「いいかげんにしろ」と日本語で叫んだという。鋭い出だしでトップを争ったまま10秒7(+1.8)の2着。5着まで同タイムの接戦で、決勝進出を決めた。
決勝は午後3時20分。依田が国立競技場に姿を現すと異様などよめきが起こった。麦わら帽子、その下に白いハチマキ、大きなサングラス。こめかみの両側には白いサロメチールがべったり塗られていた。芝生に寝転ぶと後ろ向きに逆立ち。竹ぼうきで自分のコースを掃き清めた。心を静めるためのいつも通りの大切な儀式。そしてスタートについた。
抜群の飛び出しとは言えなかったがトップを切る。ハードル上で身体が浮き、5台目で5番手。必死に追ったが10秒7(+2.3)の5位でフィニッシュした。陸上の女子ではこの大会ただ1人の入賞。メダルには届かなかったものの、表情には力を出した満足感がにじんだ。女子トラック種目の入賞は1928年アムステルダム五輪の人見絹枝以来だった。東西統一の選手団を形成したドイツのカリン・バルツァーが10秒5で金、テレサ・チェブラ(ポーランド)が10秒5で2位、パム・キルボーン(豪州)が 10秒5で3位だった。
女子円盤投の予選で横山弘子(リッカー)は47m18と、通過ラインの50m00に届かなかった。優勝はタマラ・プレス(ソ連)で57m27。
男子1500mの予選4組で山口東一(東急)は3分56秒7の10着で落選。ピーター・スネル(ニュージーランド)が3分38秒1で快勝し、800mとの2冠を果たした。
第7日(10月20日)の女子800mは予選3組で木崎正子(中大)は2分18秒6の7着で落選した。決勝は、アン・パッカー(英国)が2分01秒1の世界新で優勝した。
女子砲丸投の予選で15m24の日本記録を持つ小保内聖子(リッカー)は13m70にとどまり、予選通過の15m00に届かなかった。優勝はタマラ・プレス(ソ連)で18m14。
19、20日に実施された十種競技はウィリー・ホルドルフ(ドイツ)が7887点で優勝した。前回銀メダルで注目された楊伝広(台湾)は5位。鈴木章介(大昭和)は6838点で15位にとどまった。
女子4×100mリレーで予選2組の日本(江副令子、依田郁子、宮本悦子、井口仁子)は47秒0で6着、決勝進出はならなかった。ポーランドが43秒6(世界新)で勝った。
男子4×100mリレー予選2組で日本(飯島秀雄、蒲田勝、浅井浄、室洋二郎)は2、3走のバトンパスで失敗し、41秒0の6着となったが「プラス1」に入って突破した。準決勝は同じオーダーで2組に出場。2走から後退し、40秒6の8着で落選した。米国が、アンカーのヘイズが4人抜きの激走で39秒0の世界新をマークし、金メダルを得た。

東京五輪マイルリレー ©フォート・キシモト
男子4×400mリレー予選1組の日本(誉田徹、早瀬公忠、天野義裕、吉田正美)は、3分12秒3の5着で落選した。優勝は米国で3分00秒7の世界新をマークした。男子走高跳は予選で杉岡邦由(八幡製鉄)が2m00、宮崎欣也(大昭和)が1m90にとどまり、落選した。ワレリー・ブルメル(ソ連)が2m18で優勝した。
頼みのマラソン、ついにメダル
メダルがないまま、競技最終日(第8日=10月21日)を迎えた。最後の頼みは男子マラソン。日本は君原健二(八幡製鉄)、円谷幸吉(自衛隊)、寺沢徴(倉レ)が出場した。午後1時スタート。気温18度、湿度75%、薄曇り、絶好のコンディション。68人が参加して争われた。

東京五輪 マラソンスタート ©フォート・キシモト
ロン・クラーク(豪州)が引っ張り、前回のローマ五輪王者アベベ・ビキラ(エチオピア)、ジム・ホーガン(英国)らと先頭集団を形成し、10kmは30分14秒で通過するハイペースの展開。円谷は13位、君原は19位、寺沢は24位。先頭は15kmを45分35秒で通過した時点で後続に約1分差をつけた。20kmはアベベが1時間00分58秒でトップを快調に飛ばし、ホーガンに5秒差、クラークは遅れた。
甲州街道の調布市飛田給を折り返すとアベベが独走態勢。30kmは1時間32分50秒。ホーガンとの差は40秒に開いた。順位を上げていた円谷はクラークを抜き、ヨージェフ・シュトー(ハンガリー)とともに3位争いに浮上。35kmでアベペは1時間32分01秒、円谷、シュトーはホーガンに17秒差に迫り、その後、ホーガンが失速。シュトーも離れ、円谷は2番手となった。
40㎞でアベベは2位の円谷に3分の大差をつけ、3位にはベーシル・ヒートリー(英国)が浮上。円谷には1分差まで迫り、神宮外苑に入ってヒートリーがスピードを上げて円谷との差をさらに縮める。
競技場を出る時は最後尾にいたがアベべが悠然とトップで場内に姿を現し、2時間12分11秒2の世界最高で圧勝。4年前のローマ大会では裸足で走り、東京ではシューズを履いてマラソンで史上初の2連覇を達成した。盲腸の手術からわずか35日目とは思えない超人的な強さ。フィニッシュ後、まるで何事もなかったように柔軟体操を始め、芝生に寝転んで空に向かって自転車をこぐような動作もした。「あと20kmは走れる。ライバルがいれば、もっといいタイムが出せた」と言った。
アベベのフィニッシュからしばらくして円谷が戻ってきた。7万5000人の大観衆は大いに沸いた。だが、10m後方にはヒートリーがいる。ぐんぐん差が詰まり、疲労の色が濃い円谷に突き放す余力はなかった。残り200m、ヒートリーは円谷を抜き去る。円谷は3位で崩れ落ちるようにフィニッシュ。それでも2時間16分22秒8で堂々の銅メダル。能力の高さは認められてもマラソンではキャリア不足が心配された円谷だったが、陸上で戦後初のメダルをもたらしたがんばりに、日本中が感動に震えた。ヒートリーは2時間16分19秒2。エチオピアの国旗を中央に、左に英国、右に日の丸が掲揚され、秋の空にはためいた。
金メダルの期待もあった君原は2時間19分49秒0で8位、寺沢は2時間23分09秒0で15位に終わったが、円谷の奮闘で地元開催の五輪でメダルなしの危機を乗り越えた。陸上の日本男子は、10000mでも入賞した円谷の独り舞台だったと言える。円谷は「(3位は)夢にも思っていませんでした。でも、アベベさんともう一度やりたい」と会見で語った。だが、その栄光は暗転する。メキシコ五輪が開かれる1968年1月、「もう走れません」という遺書を残して自ら27歳の命を絶った。
12年後見据えて出直し、長期強化計画策定
東京五輪の陸上は、入賞なしのローマ五輪の惨敗をぬぐい去る成績とは遠いものとなった。12月11日の陸連常務理事会では今後3回の五輪を展望した12ヵ年の長期強化計画を決定した。4年に1回の五輪に向けた対策を立てる一方、最終の目標を12年後の五輪に置き、小中学生の育成を重要視。こうした観点から競技人口の増加、優秀なコーチの育成、基礎体力の養成に重点を置くことなどを前面に押し出し、巻き返しを期すことになった。
12月6日の朝日国際マラソン(福岡)では東京五輪15位の寺沢徹(倉レ)が「2時間20分が切れなかったらやめよう」と引退をかけてスタートラインに立ち、2時間14分48秒2の日本最高を樹立した。
1965年(昭和40年)1月21日には全国理事会で春日弘会長が辞意を表明。3月6日には春日氏が名誉会長となり、後任に河野一郎氏が就任した。3月7日には陸連の機構を3局1本部制とし、強化本部長に大島鎌吉氏が就任した。
記事提供:月刊陸上競技


