日本陸上競技連盟史
継承期:1965年度~1972年度
ポスト東京五輪
1965年度~1972年度
昭和40年4月~昭和48年3月
重松がマラソン世界最高、ユニバで飯島、沢木が金メダル
4年後のメキシコ五輪に向けて再び動き出した1965年(昭和40年)、6月12日に英国の首都ロンドン郊外でウィンザー・マラソン(ボリテクニック・ハリヤーズマランン)が行われ、重松森雄(福岡大)が2時間12分00秒0の世界最高で優舗を飾る。アベベ・ビギラ(エチオピア)が前年の東京五輪で2連覇した際に記録した2時間12分11秒2を塗り替えた。重松は4月19日の第69回ボストン・マラソン(米国)でも2時間16分33秒の大会新で優勝しており、海外2連勝で充実ぶりを示した。
7月18日に行われた実業団・学生対抗(神奈川・小田原)では飯島秀雄(早大)が200mで20秒9の日本新を樹立。女子800mでは宮本洋子(東学大)が2分11秒0の日本新をマークした。
6月30日には東京オリンビック組織委員会が解散した。
7月8日には河野一郎会長が67歳で逝去。10月27日に河野謙三副会長が後任会長に選ばれた。
8月20~29日には第4回ユニバーシアード(ブダペスト)が行われ、男子100mで飯島秀雄(早大)が追い風5.0mの参考記録ながら10秒1で勝ち、5000mで沢木啓祐(順大)が13分45秒2の日本新で優勝した。男子走高跳の杉岡邦由(八幡製鉄)が2m07で銅メダル、棒高跳の鳥居義正(吉原商高教)が4m80で4位、ハンマー投の大下紘一(日レ)は60m88で5位、室伏重信(日大)は59m70で6位。女子では80mハードルの助川立子(日大)が11秒3で5位に入った。
第49回日本選手権は10月15~17日に東京・国立競技場で行われた。
バンコク・アジア大会で金18個、男子中長距離中心に活躍
1966年(昭和41年)には3月6日の定時代議員会で専門委員会機構を改め「企画調査室」設置を決めた。企画調査室、総務局、財務局、国際局、強化本部の「3局1本部1室委員会14部」とした。
4月19日の第70回ポストン・マラソン(米国)では君原健二(八幅製鉄)が2時間17分11秒0で優勝。佐々木精一郎(九電工)が2位、寺沢徹(倉レ)が3位、岡部宏和(西鉄)が4位と上位を独占した。
5月20日の臨時代議員会で、同年から河野一郎章(現在中学優秀競技者章)を制定。陸連ユニバーシアード運営本部の設置を決め、総本部長に加藤英夫・日本学連会長を選出した。
7月16日には第1回ニッカン・ナイター陸上(国立)を実施。1968年メキシコ五輪は標高の高い同国の首都メキシコシティでの開催となることから高地対策に重点を置き、7月19日から長野県の霧ヶ峰高原、岐阜県の乗鞍を中心に高地トレーニングが始まる。8月8日まで合宿を行った。
第50回日本選手権は9月16~18日に東京・国立競技場で開催。東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた坂井義則(早大)が400mを49秒3で初制覇した。東京五輪の開会式が実施された10月10日が「体育の日」に制定された。
11月25日からは第1回アジア新興国スポーツ大会(GANEFO)がカンボジア・プノンペンで開催された。中国が主導権を持っていたが、文化大革命の混乱で以後消滅した。
12月3日は朝日国際マラソンが国際陸連(IAAF)後援となり、「国際マラソン選手権」に名称を変えて最初の大会を福岡で開催した。
12月9日~20日には第5回アジア競技大会がタイ・バンコクで開催。日本は大島謙吉ヘッドコーチ以下、49選手(男子32、女子17)が参加した。女子の400mと五種競技が新採用。12月ながら猛暑に見舞われたなか、34種目中、金18(男子11、女子7)、銀22、銅10のメダルを獲得した。大島ヘッドコーチは「金メダルは14と計算していたから、まずまずの成績だ」と及第点をつけた。
男子中長距離の奮闘が目立った。沢木啓祐(順大教)は1500m、5000mとも大会新で2種目制覇を達成した。初日の5000mは残り100mでスパートし、14分22秒0で快勝。6日目の1500mは3000m障害で金メダルを獲得した猿渡武嗣(八幡製鉄)が、終盤の競り合いで障害に足を取られて転倒した影響で欠場。沢木が代わって出場した。残り1周になってもトップグループが崩れず、最後の200mでスパートした沢木が3分47秒3で2冠に輝いている。土谷和夫(日大)は5000mで2位、10000mでは白井偗(中大)との接戦を制した。
男子マラソンは午後2時、気温32度、湿度78%の炎天のもとでスタートした。7km過ぎから君原健二(八幡製鉄)、重松森雄(倉レ)が先頭に立ち、10kmを36分50秒で通過。18kmから日本勢の独走態勢となり、30kmの到達は1時間50分08秒。31kmでまず重松が出ると、それに対応した君原が33kmでペースを上げ、2時間33分22秒8で金メダル。重松は約500m遅れて2時間35分04秒2で2位に続いた。
4×400mリレーは棄権チームが出て予選なしで決勝が行われた。日本(油井潔雄、吉田正美、誉田徹、坂井義則)は終始トップを力走し、3分09秒1の日本新で優勝した。1走の油井は400mハードルとの2冠を獲得し、板垣一彦(東教大)とともにワン・ツーも飾っている。
男子跳躍では、3種目で金、銀メダルを独占。棒高跳は広田哲夫(静岡市立高)が4m70まで1回で成功して大会新で優勝。瓜生喜蔵(国士舘大)は4m60で2位を占めた。三段跳は具志堅興清(名古屋鉄道)が15m61で制し、下 哲(大昭和)は15m54で2位に続く。
走幅跳は山田宏臣(東京)が6回目に7m48をジャンプし、7m39でトップだった岡崎高之(八幡製鉄)を逆転した。山田は十種競技にも初挑戦し、前半は3878点で日本記録を上回るペース。不慣れの投てき、初めての棒高跳で逆転を許したが、銅メダルを手にした。優勝した呉阿民(台湾)は7003点、2位の野上征雄(中大)は6613点、3位の山田は6553点だった。
男子ハンマー投は菅原武男(リッカー)が62m90、室伏重信(日大)は60m02で1、2位を独占した。
女子も金メダルラッシュ。100mは強敵になるとみられたスライマン(フィリピン)が決勝を棄権。佐藤美保(長良高)が12秒3、助川立子(日大)は12秒4で1、2位になった。助川は80mハードルを11秒2で制覇。4×100mリレーは佐藤が2走、助川はアンカーとして47秒1での金メダル獲得に貢献し、ともに2冠に輝く。80mハードルでは安部孝子(リッカー)が11秒4で2位に続き、金、銀メダル独占を果たした。
走高跳は時間変更を日本選手は知らず、直前に駆けつけてウォーミングアップなしで試技に臨む綱渡りの状況。だが、竹田真実(中京大)が1m60で優勝した。砲丸投は杉山亮子(中京大)が14m48の大会新で優勝し、沢田祐子(日大)は13m92で2位と他を圧倒した。やり投の片山美佐子(帝人松山)は好調で49m44で優勝し、5大会続けて日本のタイトルを守った。線崎幸子(日レ)も42m50で2位。
女子走幅跳は3回の試技を終了して香丸恵美子(リッカー)と紀政(台湾)がともに5m83。香丸の2番目の記録は5m69で、紀政はほかの2回をパスした。ところが日本選手の知らない間に競技は終了。タイの審判が「午前の予選で3回、午後の決勝で3回跳べばよい」と勘違いし、紀政が5m95で1位、香丸が5m83で2位、フォレージ(インド)が5m69で3位と順位を決定した。
日本、インドは抗議する、と紀政の五種競技を控えた台湾は競技終了に賛成。翌日の上訴審判会議で日本の抗議は却下され、日本選手団は態度を硬化させる。だが、河野謙三会長の「主張すべきだが、親善を一つの柱にしている大会だから参加をポイコットするのはよくない」との判断で引き下がった。日本選手団は12日午後、提訴を取り下げる旨の声明を発表。審判団から陳謝文が提出され、国際陸連(IAAF)のアドバイサー、ペイン名誉主事も誤審を認めたことも明らかにする騒動もあった。香丸は発表通り銀メダル。
その紀政は五種競技の競技中に足を痛めて後半を棄権。岡本道子(中大)が4468点の日本新で優勝した。
前回のジャカルタ大会はホスト国のインドネシアがイスラエル、台湾の参加を事実上拒否したことからアジアのスポーツ界は大混乱に陥った。インドネシアは中国など17ヵ国が参加した第1回アジア新興国スポーツ大会(GANEFO)を、バンコク・アジア競技大会直前にカンボジアのプノンペンで開いた。一方、インドネシアはアジア競技連盟(AGF)会長に対してアジア競技大会へのインドネシア選手の参加を表明、AGF加盟国はGANEFO参加者のアジア競技大会出場を差し控えたことで、バンコク大会は混乱なく開催された。
東京ユニバーシアード開催、沢木2冠
1967年(昭和42年)、8月27日~9月4日に第5回ユニバーシアード東京大会が開催された。1964年東京五輪に続く日本でのビッグイベントで、「学生のオリンピック」とも称される大会の開催は日本で初めて。
大会前には北朝鮮の国名呼称問題をめぐって大揺れとなった。妥協策として東京大会では国名を使用せず、日本ユニバーシアード委員会(JUSB)などの「国際大学スポーツ連盟(FISU)加盟団体名」を用いることになったが、北朝鮮はこれを不満として不参加。ソ連、東ドイツなどの東側諸国も同調してボイコットし、参加国・地域は34にとどまった。
陸上の日本チームは釜本文男監督以下58選手(男子39、女子19)が参加。6月24、25日に国立競技場で行われた最終選考競技会は全体的に精彩を父き、ユニバーシアード目標記録の突破は女子走高跳と五種競技の2種目だけ。7月16日の実業団・学生対抗(神奈川・小田原)を含めて選考したが、60(男子39、女子21)の代表選手枠を使い切らない状況となっていた。
日本選手団は全体で金21、銀17、銅26のメダルを獲得し、ホスト国として存在感を示した。その中でも男子5000m、10000mの2冠に輝いた沢木啓祐(順大教)の活躍は大会を彩ったハイライトの一つ。沢木は8月27日の開会式では最終の聖火ランナーを務め、聖火台に点火する大役を担っている。
陸上は大会第4日の8月30日にスタートし、連日ナイターで行われた。競技第1日に男子10000mが行われ、沢木はネルソン(米国)との激しい競り合いを制し、29分00秒0で優勝。メインポールに日の丸を揚げ、スタンドから歓声と拍手が送られた。鈴木従道(日大)も後半粘り、29分45秒8で4位に食い込んでいる
5000m決勝は最終日の9月4日、午後5時10分にスタートした。前回のブダペスト大会に続く2連覇を狙う沢木は、冷静に勝機をうかがうレース運び。10000mで沢木に取れたネルソンらが引っ張り、その後方につけた。4700m付近で満を持していたかのように飛び出し、ネルソンに5m以上の差をつけた。フィニッシュではさらに差を広げて14分03秒8で2種目制覇を果たした。ネルソンは14分05秒4で2位。大槻恵一(日大)は14分21秒2で5位に入った。
男子走幅跳の阿部直紀(順大)も金メダルを獲得。大沢健佑(法大)が腰を痛めたための代役出場だったが1回目に7m71を跳び、優勝を果たした。ハンマー投では石田義久(東洋工業)が1投目に64m94を投げ、そのまま逃げ切りV。室伏重信(日大)も61m76で3位になった。女子走高跳の竹田真実(中京大)は1m68で金メダルに輝いた。
男子走高跳は7人出場。2m05の同記録で冨沢英彦(順大)が2位、木下博正(所沢中教)が3位。優勝記録も2m05で、冨沢は1m90の1回目の失敗が響いた。7人で争った女子砲丸投で杉山亮子(松坂女短大教)が15m04で2位となり、高田法子(日大)は14m07で4位。出場4人のやり投で、原咲子(中京大)が48m38で銀メダル。山内玉子(中大)は41m68で4位。五種競技の岡本道子(大昭和)は4355点で銀メダル。吉田涼子(日体大)は4111点で4位だった。
4×100mリレーの男子(阿部直紀、石川準司、森谷嘉之、小倉新司)は小倉が先行するイタリアを追い、40秒2の日本新で2位。女子(助川立子、佐藤美保、川島幸子、辻下美代子)は優勝したフランスと同タイムの46秒5で2位だった。
男子400mハードルで油井潔雄(旭化成)は日本記録に0.1秒と迫る51秒2の自己ベストで3位に食い込んだ。赤堀征記(専大)は52秒2で6位入賞。男子3000m障害では松田信由(東洋ベアリング)が8分52秒2で3位に入り、磯端克明(旭化成)も終盤粘って8分57秒4で4位と健闘した。出場5人のやり投は山本久男(順大)が67m72で3位、佐藤義胤(中京大)は65m10の4位だった。女子80mハードル決勝は夏日綾子(日大)が好スタートを切り、終盤までリードしたが最後のハードルの着地でバランスを崩し、3位。タイムは上位3人とも11秒3だった。辻野直子(福井大)は11秒4で4位に入った。
メダルには届かなかったが、砲丸投で5位の石田義久(東洋工業)が16m69、6位の青木正純(越ケ谷高教)が16m39と、ともに16m23の日本記録を上回った。
大会後の9月22~24日には国立競技場で第51回日本選手権が開催されたが、全体的に記録は低調だった。
10月15~29日にはメキシコ国際スポーツ大会(プレオリンピック)が行われた。22日の男子マラソンで君原健二(八幡製鉄)、宇佐美彰朗(リッカー)、佐々木精一郎(九電工)が2位~4位を占めた。
12月3日の福岡国際マラソンではデレク・クレイトン(豪州)が2時間10分を史上初めて破る2時間9分36秒4の驚異的な世界最高を出し、マラソンは新時代に突入した。2位の佐々木精一郎(九電工)は2時間11分17秒0の日本最高をマークした。
この年の3月18、19日には初の全国審判部長会議開催。3月31日には初級陸上競技入門のテキスト「みんなの陸上競技」が陸連の普及強化関係者によって出版された。
11月12日には織田幹雄記念競技会が同氏の郷里広島市で始まった。
メキシコ五輪イヤー、円谷幸吉自殺、100m9秒台突入
メキシコ五輪イヤーの1968年(昭和43年)は、1月9日、東京五輪男子マラソン銅メダルの円谷幸吉が東京都練馬区の自衛隊体育学校の自室で自殺しているのが発見された、という衝撃のニュースとともに始まった。
2月14日には韓国オリンピック委員会が1970年ソウル・アジア競技大会の開催を返上。のちにパンコク開催が決まる。
6月20日にサクラメントで開催された全米選手権の男子100m準決勝でジム・ハインズ、ロニー・スミスが同じ組で、別の組でチャーリー・グリーンの3選手が、10秒の壁を破る9秒9の世界新記録を樹立した。
沢木啓祐は6月の欧州遠征で、ヘルシンキでの10000mで28分35秒2の2位、スウェーデン・ジモでは3000mで7分56秒5の2位、ストックホルムの5000mで13分33秒0の5位になり、いずれも日本記録を塗り替えている。
メキシコ五輪の競技場では初めて全天候型トラックが採用されることから、東京体育館付属の陸上競技場を日本初の全天候舗装とし、6月30日に完成した。1周300mの屋外施設。短距離、跳躍グループが練習を励むことになった。新素材に慣れるために中長距離選手も300mトラックで練習することになったが、400mトラックの十分な練習環境をもっと早期に整える必要があったと指摘する声も上がっている。
8月29、30日には東京・駒沢競技場、8月31日、9月1日には国立競技場で第52回日本選手権をメキシコ五輪の代表選考会を兼ねて実施。男子3000m障害では猿渡武嗣(八幡製鉄)が8分41秒4の日本新をマークした。結果を受けて9月2日には五輪代表を選考。メキシコ大会では女子選手の派遣を見送ることになった。
メキシコ五輪、マラソン君原銀メダル、ハンマー投げ菅原4位入賞
第19回オリンピック・メキシコ大会は10月12日~27日に開催された。会場のメキシコシティは平均の標高2240mの高地。平地と比べて酸素濃度が4分の3程度となり、各国とも高地対策を意識した強化に取り組んできた。日本は、東京五輪では全種目出場にエントリーしたが、今回は精鋭主義に立ち返り、村上正監督の下、男子のみ19選手の構成。女子選手の参加0は、1928年アムステルダム五輪以降で初めてのことだった。
日本勢はマラソンの君原健二(八幡製鉄)が銀メダルに輝き、東京大会の円谷幸吉に続いて表彰台に立った。陸上第8日(10月20日)のマラソンは午後3時、72選手が参加してスタート。日本は君原、佐々木精一郎(九電工)、宇佐美彰朗(桜門陸友会)が高地の薄い空気の中で挑んだ。君原は20kmあたりで8番手だったが、そこから後半にじりじりと順位を上げ、30kmを過ぎて2番手に浮上した。35kmでは先頭とは約2分差となった一方、後ろにはマイケル・ライアン(ニュージーランド)が迫ってきた。残り2kmでは君原と3位ライアンとは8秒差となったが、独特の苦しげに首を振るフォームで2位をキープしてフィニッシュした。「大会前、陸連から派遣されて4回もコースを試走した。他の人より恵まれた僕が上位に入って当然です」と謙虚な言葉を残している。マモ・ウォルデが2時間20分26秒4でエチオピア勢としてこの種目3連覇。君原は2時間23分31秒0。3位のライアンは2時間23分45秒0で君原とは14秒差だった。追い込んだ宇佐美が2時間28分06秒2で9位。佐々木は25km過ぎに棄権した。
棒高跳では丹羽清(法大)が4m80から跳び始め、1回でクリア。4m90も成功し、5m00も軽々と跳んで日本記録を塗り替えた。5m05をパスし、5m10も1回で成功。5m15は2回目に跳んだ。5m20は3度ともバーを落として11位。入賞には届かなかったが、大会前の4m96の自己記録を19cmも更新する健闘だった。
男子走幅跳決勝で山田宏臣(東急)は1回目に8mを超えたジャンプがファウル。2回目に7m93(+4.2)を跳んだが1cm差でベスト8に残れず、9位だった。2回目からは雨になって全体の記録が伸び悩み、8位とは最終的に9cm差だった。優勝したボブ・ビーモン(米国)は空気抵抗が平地と比べて軽減される高地の条件を味方に、大ジャンプを見せた。1回目、力強い踏み切りで高く舞い上がり、8m90(+2.0)へ。世界を驚嘆させた世界記録は、1991年東京世界選手権でマイク・パウエル(米国)が8m95を跳ぶまで、世界の頂点に君臨することになる。
また、男子100mでもジム・ハインズ(米国)が電気計時で初めて10秒の壁を破る9秒95の世界新をマークし、大記録に沸く。一方で、男子走高跳では2m24で優勝したディック・フォスベリー(米国)が、ただ一人、踏み切り後に背中でバーを越える「背面跳び(フォスベリー・フロップ)」を披露がされた大会でもある。身体の前面で巻き込むように回転して跳ぶベリーロールに代わって、世界の主流となっていく革命的なジャンプが生まれた大きな節目の日となった。
今大会は黒人選手が大活躍した一方、米国の人種差別に抗議して、200mの表彰台で金メダルのトミー・スミス、銀メダルのジョン・カルロスが米国国旗から目をそらし、黒手袋の手を空に掲げた。
10月21日の国際陸連(IAAF)総会(メキシコシティー)では織田幹雄氏が新評議員に決定。そのあとで1国2人の評議員制をやめるインド案が可決され、浅野均一評議員が退任した。
国立で第1回太平洋沿岸5カ国対抗開催
1969年(昭和44年)、2月14日に日本体育協会はアマチュア規定を廃止し、競技団体に対応を委ねることにした。3月1日には陸連機構を簡素化する青木理事長の提案に伴い、競技本部を廃止、強化部長に帖佐寛章氏が就任した。3月27日には日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒徳委員長の後任に、青木半治理事長が就任。5月28日は竹田恒徳ユニバーシアード委員長の後任に、田島直人常務理事が就いた。7月2日には青木半治理事長が日本体協専務理事に就任し、JOC委員長を兼任した。
9月27、28日、米国、カナダ、豪州、ニュージーランド、日本による第1回太平洋沿岸5ヵ国対抗が東京・国立競技場で行われた。この大会の開催が決まったのは、1967年12月8日。大会の準備委員会が6日から3日間、東京都内のホテルで開かれ、各国の代表が協議。日本陸連は河野謙三会長、青木半治理事長が出席し、東京開催が決まった。
これより前には1964年に東京五輪の際の国際陸連(IAAF)総会で、日本陸連は「オリンピックの中間年に世界選手権を開催できないか」と提案。これは4年間にアジア競技大会と五輪しか海外で競技をする機会がない日本選手に、より多くの国際大会を経験させて強化を図ろうとする陸連の理念があった。だが、1966年9月のIAAF総会(ハンガリー・ブダペスト)で世界選手権の開催提案は否決され、新たに浮上した構想の一つが太平洋沿岸5ヵ国対抗だった。大会開催が決まった67年12月の準備委員会では、実施種目は男子20、女子12の計32種目。参加選手は1ヵ国40人(役員5、選手35)以内とすることなどを申し合わせた。大会は4年ごと。開催経費は主催国が負担し、招待競技会として実施されることになった。
第1回大会は2日間とも午後4時からナイターで行われた。32種目中、豪州が15種目で優勝。米国が11種目、カナダが3種目、ニュージーランドが2種目で1位となり、日本の優勝は5m10に成功した男子棒高跳の井上恭一郎(大昭和)だけにとどまった。3000m障害の猿渡武嗣(八幡製鉄)は8分35秒8で3位に入り、自身が1968年に出した8分38秒8の日本記録を更新。女子400mでは三嶋恭代(和歌山北高教)が予選敗退ながら、56秒5の日本新をマークした。
第54回日本選手権は9月19~21日に埼玉県上尾で開催。男子400mは友永義治(日立)が47秒7で勝ち、女子走幅跳は山下博子(三潴高)が6m25の日本新で3連覇。この大会から80mハードルは100mハードルに変えて実施された。
山田が悲願の8mジャンプ
1970年(昭和45年)は3月1日、第1回全日本大学駅伝対校選手権大会が名古屋熱田神宮~伊勢神宮コースで開催。日体大が優勝した。
6月7日には第10回実業団・学生対抗(神奈川小田原)の男子走幅跳で、6回目に山田宏臣(東急)が8m01(+1.1)の日本新。何度も挑んでは跳ね返された壁を突き破り、悲願の8mジャンパーの仲間入りを果たした。南部忠平が1931年にマークした7m98(当時世界記録)を39年ぶりに塗り替える快挙だった。
この大会の前には5月28~30日に東京・国立競技場で第54回日本選手権が開催された。ここでは山田は7m66の2位。7m81の小倉新司(岐阜北高教)に敗れていた。
6月13日には国産初の全天候舗装競技場が東京・世田谷区立総合運動場に完成。している。
第6回ユニバーシアード大会はポルトガル・リスボンの辞退により、イタリア・トリノで8月26日~9月6日に開催された。前回のホスト国日本に優勝はなく、2種目で銅メダルを得た。女子走幅跳の山下博子(中京大)は6m17(+1.7)で3位になり、優勝したハイデマリー・ローゼンダール(西ドイツ)は6m84の世界新記録を樹立。男子3000m障害は小山隆治(順大)が8分38秒0で3位になった。
8月31日の国際陸連(IAAF)総会(スウェーデン・ストックホルム)は人種差別がはびこる南アフリカを今後2年間、出場停止処分にすると決めた。
9月12日には春日弘名誉会長が86歳で死去した。
11月7、8日には第1回全日本ジュニア選手権(国立)を開いた。後に日本ジュニア・オリンピックと改称。
12月6日には福岡国際マラソンで宇佐美彰朗(桜門陸友会)が2時間10分37秒8の日本最高で優勝し、外国選手の5連覇を阻んだ。
アジア大会でマラソン君原連覇、金メダル19
12月9~20日には第6回アジア競技大会が前回に引き続き、タイの首都バンコクで開催された。当初は韓国・ソウルでの開催が決まっていたが、韓国の国内事情から返上。費用の3分の1を韓国、3分の1を日本、イスラエル、台湾、マレーシア、フィリピンその他の加盟国で分担することとし、再びタイで実施した。日本は帖佐寛章監督以下49選手が出場。目標に掲げた20種目の優勝に迫り、男子13、女子6の計19種目で金メダルを得た。
炎天下の男子マラソンで君原健二(新日鉄)が2連覇を達成した。気温25度、湿度77%の条件下、陸上6日目(12月15日)午前6時59分に14人がスタート。君原は御船芳郎(リッカー)、姜明光(韓国)のとの優勝争いを展開し、早めの仕掛けから抜け出し、2時間21分03秒0で制した。御船も2時間24分20秒8で2位に続いた。
これまで勝てずにきた男子100mで、神野正英(日大)が日本に初の金メダルをもたらした。陸上3日目(12月12日)の決勝は3回のフライングのあとスタート。神野は50mまで完全にトップだったが、アナト・ラタナポール(タイ)、カナガサバイ・クナラン(シンガポール)が追い込み、3者がほとんど同時にフィニッシュした。写真判定の結果、10秒5の同タイムで神野がこの種目で初の日本人王者となった。
このほかにも陸上初日(12月10日)から金メダルラッシュ。女子走幅跳で山下博子(中京大)が5回目の6m02を跳び、食あたりの不調を克服して金メダルを獲得した。円盤投は下痢に悩まされながらも八木下てる子(日女体大教)が47m70で優勝した。
陸上2日(12月11日)の男子400mハードルは茂田幸高(日体大)が52秒6で優勝。3000m障害は三浦信由(東洋ベアリング)が8分48秒8で制し、野呂進(日体大教)は8分50秒3で2位。1周目の4台のハードルをセットするのを忘れたままスタートしたが、大会本部はそのまま公式記録として発表した。4人が出場の男子ハンマー投は室伏重信(大昭和)が67m08の大会新で金メダル。石田義久(東洋工業)は64m34で2位に続いた。
陸上3日目。男子400mでは後半に追い込んだ友永義治(日立)が最後の直線で先行する2人を抜いて優勝した。日本選手で初めて47秒を切る46秒6の日本新を樹立する鮮やかなレースだった。男子110mハードルは出場5人中、フィニッシュしたのは3人という珍しいレースとなったが、渡部近志(竹下組)が14秒7で勝った
陸上4日(12月13日)の男子やり投は、下痢と発熱に苦しむ山本久男(富山商高教)が71m24で優勝。女子200mは100mとの2冠確実と見られた紀政(台湾)がこの日の400m決勝で脚を痛めた影響もあり、山田恵子(丸亀高・香川)が25秒0で優勝した。
陸上5日(12月14日)の男子十種競技は、前半から大きくリードした鬼塚純一(福岡大)が棒高跳で自己ベストの4m00を跳び、7073点の日本新で優勝した。8人が出場し、競技を完了したのは5人だった。女子走高跳は稲岡美千代(中大)が1m70の日本タイで勝ち、鈴木久美江(東洋大)は1m66で2位に続いた。
陸上6日の男子1500mは野呂進(日体大教)がラストの競り合いを3分53秒0で制し、今大会の中距離で初めて頂点に立った。男子棒高跳の井上恭一郎(大昭和)が4m80で日本勢6連勝を達成し、新谷誠規(順大)は4m60で2位。女子やり投の森田信子(日立)は49m84の大会新で優勝し、原咲子(中央発条)が48m12で2位となった。女子4×100mリレーの日本(小西恵美子、土田恵子、佐藤子、山田恵子)は2位のシンガポールに5mの差をつけ、47秒2で金メダル。男子4×400mリレーで日本(和久博至、島田清、猪俣広光、友永義治)は3分10秒0で快勝した。
財団法人認可
1971年(昭和46年)の3月、日本陸連は昭和45年度代議員会で法人化を決定。3月16日付で「財団法人 日本陸上競技連盟設立許可申請書」を文部大臣充てに提出し、4月24日に認可を受けた。
陸連ではその2年前から公益法人への改組の動きが始まっていたが、問題となったのは理事数だった。文部省からは理事数を20人以内とするよう求められたが、河野謙三会長と文部省の交渉によって「20~23人」とすることで決着した。日本陸連は東京五輪直後の1965年3月7日付で実業団連合、学連、高体連、中体連と新たな5者協定を結んでおり、その中に各団体から2人ずつ日本陸連の理事とすることなどが盛り込まれていた。法人化に当たっては会長、専務理事、常務理事で31人、理事22人の計53人からどう23人に絞り込むかが大きな課題となった。このため、5者協定の改定は避けられないことになり、協力団体からの理事は0とし、1人ずつ議決権のない連絡理事の派遣を求めることに改めた。設立時の態勢は河野謙三会長、青木半治専務理事、理事21人、監事2人となった。
第55回日本選手権は5月28~30日に国立競技場で開催。男子3000m障害は小山隆治(クラレ)が8分32秒4の日本新で圧勝した。男子走高跳はベリーロールの冨沢英彦(蚕糸高教)が2m20、女子400mの河野信子(ユニチカ)は55秒7の日本新をそれぞれ樹立して優勝した。女子円盤投の八木下てる子(越ケ谷教委)が51m08の日本新で4連覇した。
10月31日には日ソ親善陸上が実業団東西対抗を兼ねて佐賀で開かれ、福岡、東京でも開催された。
ミュンヘン五輪、君原5位入賞
1972年(昭和47年)はミュンヘン五輪イヤー。第56回日本選手権は6月2~4日、国立競技場でミュンヘン五輪の最終選考会を兼ねて開催された。男子100mは神野正英(新日鉄)と石沢隆夫(早大)が雨の中で激突、石沢が10秒7で、10秒8の神野を下した。女子砲丸投の林香代子(中京大)が15m65の日本新をマークした。
3月19日に日本選手権を兼ねて滋賀県大津市で行われた毎日マラソンでは宇佐美彰朗(桜門陸友会)が2時間20分24秒で優勝。2位に入った君原健二(八幡製鉄)、3位の采谷義秋(広島県教育委)とともに、ミュンヘン五輪のマラソン代表に選出された。
4月1日には浅野均一、織田幹雄の両氏が名誉会長となった。
8月26日、第20回オリンピック大会が西ドイツ(当時)のミュンヘンで開幕し、9月11日まで実施された。複数のアフリカ諸国は公然と人種差別を行うローデシアの参加を巡ってボイコットの動きをみせた。開幕直前の22日に行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会でローデシアを資格停止として五輪参加を認めなかったことで、事態が収拾。
こうして始まった大会の9月5日の休養日、パレスチナのゲリラ「黒い9月」が選手村のイスラエル宿舎を襲撃。2人を殺害、9人を人質にして逃亡を図った。警察当局との銃撃戦となり、人質全員が死亡する最悪の事件が起きた。翌日は競技を中止して追悼式が行われ、9月7日に再開された。
陸上は苦戦が続き、入賞の0のまま迎えた最終日の男子マラソン。最も期待されたのが宇佐美彰朗(桜門陸友会)だった。宇佐美は序盤、積極的に前方でレースを展開した。メキシコ五輪銀メダルの君原健二(新日鉄)は第2集団、采谷義秋(広島県教委)はさらにその後方につけた。20kmではフランク・ショーター(米国)が後続に200mの差をつける独走態勢。そこから追い上げたのが君原で、40kmを過ぎて5位に浮上。首を左右に振って奮闘し、そのままの順位でフィニッシュ。2時間16分27秒0で5位入賞を果たした。宇佐美は2時間18分58秒0の12位、采谷は2時間25分59秒0の36位だった。ショーターは2位に2分以上の差をつけ、2時間12分19秒8で金メダルを獲得した。
男子ハンマー投決勝で室伏重信(大昭和)は2投日に70m88をマークし、8位でベスト8に進出。4投目以降に伸ばせず、そのまま8位。入賞の6位との差は32cmだった。
男子3000m障害では小山隆治(クラレ)が予選で8分29秒8の日本新をマーク。1組3着で決勝に進出し、決勝は8分37秒8の9位に入った。同三段跳でも井上敏明(法大)は16m49の自己新で、16m20予選通過標準記録を突破。決勝は1回目の15m88(+1.7)が最高で12位となった。同走高跳でも冨沢英彦(蚕糸高教)は予選を突破したが、決勝は2m05の19位だった。
10月22~27日の第27回国体は鹿児島で開催。この国体で大会旗リレーは取りやめとなった。
1973年(昭和48年)3月4日、陸連は強化新12年計画を承認した。
記事提供:月刊陸上競技
1965年度~1972年度
昭和40年4月~昭和48年3月
重松がマラソン世界最高、ユニバで飯島、沢木が金メダル
4年後のメキシコ五輪に向けて再び動き出した1965年(昭和40年)、6月12日に英国の首都ロンドン郊外でウィンザー・マラソン(ボリテクニック・ハリヤーズマランン)が行われ、重松森雄(福岡大)が2時間12分00秒0の世界最高で優舗を飾る。アベベ・ビギラ(エチオピア)が前年の東京五輪で2連覇した際に記録した2時間12分11秒2を塗り替えた。重松は4月19日の第69回ボストン・マラソン(米国)でも2時間16分33秒の大会新で優勝しており、海外2連勝で充実ぶりを示した。
7月18日に行われた実業団・学生対抗(神奈川・小田原)では飯島秀雄(早大)が200mで20秒9の日本新を樹立。女子800mでは宮本洋子(東学大)が2分11秒0の日本新をマークした。
6月30日には東京オリンビック組織委員会が解散した。
7月8日には河野一郎会長が67歳で逝去。10月27日に河野謙三副会長が後任会長に選ばれた。
8月20~29日には第4回ユニバーシアード(ブダペスト)が行われ、男子100mで飯島秀雄(早大)が追い風5.0mの参考記録ながら10秒1で勝ち、5000mで沢木啓祐(順大)が13分45秒2の日本新で優勝した。男子走高跳の杉岡邦由(八幡製鉄)が2m07で銅メダル、棒高跳の鳥居義正(吉原商高教)が4m80で4位、ハンマー投の大下紘一(日レ)は60m88で5位、室伏重信(日大)は59m70で6位。女子では80mハードルの助川立子(日大)が11秒3で5位に入った。

1966 沢木啓祐 ©フォート・キシモト
大会後の8月31日に行われた国際大学スポーツ連盟(FISU)総会で、次回1967年大会の東京開催が決定した。東京のほか、リヨン(フランス)、リスボン(ポルトガル)、バルセロナ(スペイン)も立候補し、リヨン有利と見られていたが、最終的には日本開催に落ち着いた。第49回日本選手権は10月15~17日に東京・国立競技場で行われた。
バンコク・アジア大会で金18個、男子中長距離中心に活躍
1966年(昭和41年)には3月6日の定時代議員会で専門委員会機構を改め「企画調査室」設置を決めた。企画調査室、総務局、財務局、国際局、強化本部の「3局1本部1室委員会14部」とした。
4月19日の第70回ポストン・マラソン(米国)では君原健二(八幅製鉄)が2時間17分11秒0で優勝。佐々木精一郎(九電工)が2位、寺沢徹(倉レ)が3位、岡部宏和(西鉄)が4位と上位を独占した。
5月20日の臨時代議員会で、同年から河野一郎章(現在中学優秀競技者章)を制定。陸連ユニバーシアード運営本部の設置を決め、総本部長に加藤英夫・日本学連会長を選出した。
7月16日には第1回ニッカン・ナイター陸上(国立)を実施。1968年メキシコ五輪は標高の高い同国の首都メキシコシティでの開催となることから高地対策に重点を置き、7月19日から長野県の霧ヶ峰高原、岐阜県の乗鞍を中心に高地トレーニングが始まる。8月8日まで合宿を行った。
第50回日本選手権は9月16~18日に東京・国立競技場で開催。東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた坂井義則(早大)が400mを49秒3で初制覇した。東京五輪の開会式が実施された10月10日が「体育の日」に制定された。
11月25日からは第1回アジア新興国スポーツ大会(GANEFO)がカンボジア・プノンペンで開催された。中国が主導権を持っていたが、文化大革命の混乱で以後消滅した。
12月3日は朝日国際マラソンが国際陸連(IAAF)後援となり、「国際マラソン選手権」に名称を変えて最初の大会を福岡で開催した。
12月9日~20日には第5回アジア競技大会がタイ・バンコクで開催。日本は大島謙吉ヘッドコーチ以下、49選手(男子32、女子17)が参加した。女子の400mと五種競技が新採用。12月ながら猛暑に見舞われたなか、34種目中、金18(男子11、女子7)、銀22、銅10のメダルを獲得した。大島ヘッドコーチは「金メダルは14と計算していたから、まずまずの成績だ」と及第点をつけた。
男子中長距離の奮闘が目立った。沢木啓祐(順大教)は1500m、5000mとも大会新で2種目制覇を達成した。初日の5000mは残り100mでスパートし、14分22秒0で快勝。6日目の1500mは3000m障害で金メダルを獲得した猿渡武嗣(八幡製鉄)が、終盤の競り合いで障害に足を取られて転倒した影響で欠場。沢木が代わって出場した。残り1周になってもトップグループが崩れず、最後の200mでスパートした沢木が3分47秒3で2冠に輝いている。土谷和夫(日大)は5000mで2位、10000mでは白井偗(中大)との接戦を制した。
男子マラソンは午後2時、気温32度、湿度78%の炎天のもとでスタートした。7km過ぎから君原健二(八幡製鉄)、重松森雄(倉レ)が先頭に立ち、10kmを36分50秒で通過。18kmから日本勢の独走態勢となり、30kmの到達は1時間50分08秒。31kmでまず重松が出ると、それに対応した君原が33kmでペースを上げ、2時間33分22秒8で金メダル。重松は約500m遅れて2時間35分04秒2で2位に続いた。
4×400mリレーは棄権チームが出て予選なしで決勝が行われた。日本(油井潔雄、吉田正美、誉田徹、坂井義則)は終始トップを力走し、3分09秒1の日本新で優勝した。1走の油井は400mハードルとの2冠を獲得し、板垣一彦(東教大)とともにワン・ツーも飾っている。
男子跳躍では、3種目で金、銀メダルを独占。棒高跳は広田哲夫(静岡市立高)が4m70まで1回で成功して大会新で優勝。瓜生喜蔵(国士舘大)は4m60で2位を占めた。三段跳は具志堅興清(名古屋鉄道)が15m61で制し、下 哲(大昭和)は15m54で2位に続く。
走幅跳は山田宏臣(東京)が6回目に7m48をジャンプし、7m39でトップだった岡崎高之(八幡製鉄)を逆転した。山田は十種競技にも初挑戦し、前半は3878点で日本記録を上回るペース。不慣れの投てき、初めての棒高跳で逆転を許したが、銅メダルを手にした。優勝した呉阿民(台湾)は7003点、2位の野上征雄(中大)は6613点、3位の山田は6553点だった。
男子ハンマー投は菅原武男(リッカー)が62m90、室伏重信(日大)は60m02で1、2位を独占した。
女子も金メダルラッシュ。100mは強敵になるとみられたスライマン(フィリピン)が決勝を棄権。佐藤美保(長良高)が12秒3、助川立子(日大)は12秒4で1、2位になった。助川は80mハードルを11秒2で制覇。4×100mリレーは佐藤が2走、助川はアンカーとして47秒1での金メダル獲得に貢献し、ともに2冠に輝く。80mハードルでは安部孝子(リッカー)が11秒4で2位に続き、金、銀メダル独占を果たした。
走高跳は時間変更を日本選手は知らず、直前に駆けつけてウォーミングアップなしで試技に臨む綱渡りの状況。だが、竹田真実(中京大)が1m60で優勝した。砲丸投は杉山亮子(中京大)が14m48の大会新で優勝し、沢田祐子(日大)は13m92で2位と他を圧倒した。やり投の片山美佐子(帝人松山)は好調で49m44で優勝し、5大会続けて日本のタイトルを守った。線崎幸子(日レ)も42m50で2位。
女子走幅跳は3回の試技を終了して香丸恵美子(リッカー)と紀政(台湾)がともに5m83。香丸の2番目の記録は5m69で、紀政はほかの2回をパスした。ところが日本選手の知らない間に競技は終了。タイの審判が「午前の予選で3回、午後の決勝で3回跳べばよい」と勘違いし、紀政が5m95で1位、香丸が5m83で2位、フォレージ(インド)が5m69で3位と順位を決定した。
日本、インドは抗議する、と紀政の五種競技を控えた台湾は競技終了に賛成。翌日の上訴審判会議で日本の抗議は却下され、日本選手団は態度を硬化させる。だが、河野謙三会長の「主張すべきだが、親善を一つの柱にしている大会だから参加をポイコットするのはよくない」との判断で引き下がった。日本選手団は12日午後、提訴を取り下げる旨の声明を発表。審判団から陳謝文が提出され、国際陸連(IAAF)のアドバイサー、ペイン名誉主事も誤審を認めたことも明らかにする騒動もあった。香丸は発表通り銀メダル。
その紀政は五種競技の競技中に足を痛めて後半を棄権。岡本道子(中大)が4468点の日本新で優勝した。
前回のジャカルタ大会はホスト国のインドネシアがイスラエル、台湾の参加を事実上拒否したことからアジアのスポーツ界は大混乱に陥った。インドネシアは中国など17ヵ国が参加した第1回アジア新興国スポーツ大会(GANEFO)を、バンコク・アジア競技大会直前にカンボジアのプノンペンで開いた。一方、インドネシアはアジア競技連盟(AGF)会長に対してアジア競技大会へのインドネシア選手の参加を表明、AGF加盟国はGANEFO参加者のアジア競技大会出場を差し控えたことで、バンコク大会は混乱なく開催された。
東京ユニバーシアード開催、沢木2冠
1967年(昭和42年)、8月27日~9月4日に第5回ユニバーシアード東京大会が開催された。1964年東京五輪に続く日本でのビッグイベントで、「学生のオリンピック」とも称される大会の開催は日本で初めて。
大会前には北朝鮮の国名呼称問題をめぐって大揺れとなった。妥協策として東京大会では国名を使用せず、日本ユニバーシアード委員会(JUSB)などの「国際大学スポーツ連盟(FISU)加盟団体名」を用いることになったが、北朝鮮はこれを不満として不参加。ソ連、東ドイツなどの東側諸国も同調してボイコットし、参加国・地域は34にとどまった。
陸上の日本チームは釜本文男監督以下58選手(男子39、女子19)が参加。6月24、25日に国立競技場で行われた最終選考競技会は全体的に精彩を父き、ユニバーシアード目標記録の突破は女子走高跳と五種競技の2種目だけ。7月16日の実業団・学生対抗(神奈川・小田原)を含めて選考したが、60(男子39、女子21)の代表選手枠を使い切らない状況となっていた。
日本選手団は全体で金21、銀17、銅26のメダルを獲得し、ホスト国として存在感を示した。その中でも男子5000m、10000mの2冠に輝いた沢木啓祐(順大教)の活躍は大会を彩ったハイライトの一つ。沢木は8月27日の開会式では最終の聖火ランナーを務め、聖火台に点火する大役を担っている。
陸上は大会第4日の8月30日にスタートし、連日ナイターで行われた。競技第1日に男子10000mが行われ、沢木はネルソン(米国)との激しい競り合いを制し、29分00秒0で優勝。メインポールに日の丸を揚げ、スタンドから歓声と拍手が送られた。鈴木従道(日大)も後半粘り、29分45秒8で4位に食い込んでいる
5000m決勝は最終日の9月4日、午後5時10分にスタートした。前回のブダペスト大会に続く2連覇を狙う沢木は、冷静に勝機をうかがうレース運び。10000mで沢木に取れたネルソンらが引っ張り、その後方につけた。4700m付近で満を持していたかのように飛び出し、ネルソンに5m以上の差をつけた。フィニッシュではさらに差を広げて14分03秒8で2種目制覇を果たした。ネルソンは14分05秒4で2位。大槻恵一(日大)は14分21秒2で5位に入った。
男子走幅跳の阿部直紀(順大)も金メダルを獲得。大沢健佑(法大)が腰を痛めたための代役出場だったが1回目に7m71を跳び、優勝を果たした。ハンマー投では石田義久(東洋工業)が1投目に64m94を投げ、そのまま逃げ切りV。室伏重信(日大)も61m76で3位になった。女子走高跳の竹田真実(中京大)は1m68で金メダルに輝いた。
男子走高跳は7人出場。2m05の同記録で冨沢英彦(順大)が2位、木下博正(所沢中教)が3位。優勝記録も2m05で、冨沢は1m90の1回目の失敗が響いた。7人で争った女子砲丸投で杉山亮子(松坂女短大教)が15m04で2位となり、高田法子(日大)は14m07で4位。出場4人のやり投で、原咲子(中京大)が48m38で銀メダル。山内玉子(中大)は41m68で4位。五種競技の岡本道子(大昭和)は4355点で銀メダル。吉田涼子(日体大)は4111点で4位だった。
4×100mリレーの男子(阿部直紀、石川準司、森谷嘉之、小倉新司)は小倉が先行するイタリアを追い、40秒2の日本新で2位。女子(助川立子、佐藤美保、川島幸子、辻下美代子)は優勝したフランスと同タイムの46秒5で2位だった。
男子400mハードルで油井潔雄(旭化成)は日本記録に0.1秒と迫る51秒2の自己ベストで3位に食い込んだ。赤堀征記(専大)は52秒2で6位入賞。男子3000m障害では松田信由(東洋ベアリング)が8分52秒2で3位に入り、磯端克明(旭化成)も終盤粘って8分57秒4で4位と健闘した。出場5人のやり投は山本久男(順大)が67m72で3位、佐藤義胤(中京大)は65m10の4位だった。女子80mハードル決勝は夏日綾子(日大)が好スタートを切り、終盤までリードしたが最後のハードルの着地でバランスを崩し、3位。タイムは上位3人とも11秒3だった。辻野直子(福井大)は11秒4で4位に入った。
メダルには届かなかったが、砲丸投で5位の石田義久(東洋工業)が16m69、6位の青木正純(越ケ谷高教)が16m39と、ともに16m23の日本記録を上回った。
大会後の9月22~24日には国立競技場で第51回日本選手権が開催されたが、全体的に記録は低調だった。
10月15~29日にはメキシコ国際スポーツ大会(プレオリンピック)が行われた。22日の男子マラソンで君原健二(八幡製鉄)、宇佐美彰朗(リッカー)、佐々木精一郎(九電工)が2位~4位を占めた。
12月3日の福岡国際マラソンではデレク・クレイトン(豪州)が2時間10分を史上初めて破る2時間9分36秒4の驚異的な世界最高を出し、マラソンは新時代に突入した。2位の佐々木精一郎(九電工)は2時間11分17秒0の日本最高をマークした。
この年の3月18、19日には初の全国審判部長会議開催。3月31日には初級陸上競技入門のテキスト「みんなの陸上競技」が陸連の普及強化関係者によって出版された。
11月12日には織田幹雄記念競技会が同氏の郷里広島市で始まった。
メキシコ五輪イヤー、円谷幸吉自殺、100m9秒台突入
メキシコ五輪イヤーの1968年(昭和43年)は、1月9日、東京五輪男子マラソン銅メダルの円谷幸吉が東京都練馬区の自衛隊体育学校の自室で自殺しているのが発見された、という衝撃のニュースとともに始まった。
2月14日には韓国オリンピック委員会が1970年ソウル・アジア競技大会の開催を返上。のちにパンコク開催が決まる。
6月20日にサクラメントで開催された全米選手権の男子100m準決勝でジム・ハインズ、ロニー・スミスが同じ組で、別の組でチャーリー・グリーンの3選手が、10秒の壁を破る9秒9の世界新記録を樹立した。
沢木啓祐は6月の欧州遠征で、ヘルシンキでの10000mで28分35秒2の2位、スウェーデン・ジモでは3000mで7分56秒5の2位、ストックホルムの5000mで13分33秒0の5位になり、いずれも日本記録を塗り替えている。
メキシコ五輪の競技場では初めて全天候型トラックが採用されることから、東京体育館付属の陸上競技場を日本初の全天候舗装とし、6月30日に完成した。1周300mの屋外施設。短距離、跳躍グループが練習を励むことになった。新素材に慣れるために中長距離選手も300mトラックで練習することになったが、400mトラックの十分な練習環境をもっと早期に整える必要があったと指摘する声も上がっている。
8月29、30日には東京・駒沢競技場、8月31日、9月1日には国立競技場で第52回日本選手権をメキシコ五輪の代表選考会を兼ねて実施。男子3000m障害では猿渡武嗣(八幡製鉄)が8分41秒4の日本新をマークした。結果を受けて9月2日には五輪代表を選考。メキシコ大会では女子選手の派遣を見送ることになった。
メキシコ五輪、マラソン君原銀メダル、ハンマー投げ菅原4位入賞
第19回オリンピック・メキシコ大会は10月12日~27日に開催された。会場のメキシコシティは平均の標高2240mの高地。平地と比べて酸素濃度が4分の3程度となり、各国とも高地対策を意識した強化に取り組んできた。日本は、東京五輪では全種目出場にエントリーしたが、今回は精鋭主義に立ち返り、村上正監督の下、男子のみ19選手の構成。女子選手の参加0は、1928年アムステルダム五輪以降で初めてのことだった。
日本勢はマラソンの君原健二(八幡製鉄)が銀メダルに輝き、東京大会の円谷幸吉に続いて表彰台に立った。陸上第8日(10月20日)のマラソンは午後3時、72選手が参加してスタート。日本は君原、佐々木精一郎(九電工)、宇佐美彰朗(桜門陸友会)が高地の薄い空気の中で挑んだ。君原は20kmあたりで8番手だったが、そこから後半にじりじりと順位を上げ、30kmを過ぎて2番手に浮上した。35kmでは先頭とは約2分差となった一方、後ろにはマイケル・ライアン(ニュージーランド)が迫ってきた。残り2kmでは君原と3位ライアンとは8秒差となったが、独特の苦しげに首を振るフォームで2位をキープしてフィニッシュした。「大会前、陸連から派遣されて4回もコースを試走した。他の人より恵まれた僕が上位に入って当然です」と謙虚な言葉を残している。マモ・ウォルデが2時間20分26秒4でエチオピア勢としてこの種目3連覇。君原は2時間23分31秒0。3位のライアンは2時間23分45秒0で君原とは14秒差だった。追い込んだ宇佐美が2時間28分06秒2で9位。佐々木は25km過ぎに棄権した。

君原健二 1968メキシコ五輪 ©フォート・キシモト
ハンマー投で菅原武男(リッカー)が五輪の投てき種目初の4位入賞を果たした。2投目の68m12で6位につけると、4投目に69m06、5投目に69m78に伸ばして、3位のラーザール・ロバシュ(ハンガリ一)の記録と並んだ。最終の6投目は力みが出てファウル。ロバシュも記録は伸びなかったが、セカンド記録で32cm及ばず。メダルは逸したが、日本男子投てき入賞第1号となった。ジュラ・ジボツキー(ハンガリー)が73m36で1位、ロムアルド・クリム(ソ連)が73m28で2位。石田義久(東洋工業)は65m04で13位に終わった。棒高跳では丹羽清(法大)が4m80から跳び始め、1回でクリア。4m90も成功し、5m00も軽々と跳んで日本記録を塗り替えた。5m05をパスし、5m10も1回で成功。5m15は2回目に跳んだ。5m20は3度ともバーを落として11位。入賞には届かなかったが、大会前の4m96の自己記録を19cmも更新する健闘だった。
男子走幅跳決勝で山田宏臣(東急)は1回目に8mを超えたジャンプがファウル。2回目に7m93(+4.2)を跳んだが1cm差でベスト8に残れず、9位だった。2回目からは雨になって全体の記録が伸び悩み、8位とは最終的に9cm差だった。優勝したボブ・ビーモン(米国)は空気抵抗が平地と比べて軽減される高地の条件を味方に、大ジャンプを見せた。1回目、力強い踏み切りで高く舞い上がり、8m90(+2.0)へ。世界を驚嘆させた世界記録は、1991年東京世界選手権でマイク・パウエル(米国)が8m95を跳ぶまで、世界の頂点に君臨することになる。
また、男子100mでもジム・ハインズ(米国)が電気計時で初めて10秒の壁を破る9秒95の世界新をマークし、大記録に沸く。一方で、男子走高跳では2m24で優勝したディック・フォスベリー(米国)が、ただ一人、踏み切り後に背中でバーを越える「背面跳び(フォスベリー・フロップ)」を披露がされた大会でもある。身体の前面で巻き込むように回転して跳ぶベリーロールに代わって、世界の主流となっていく革命的なジャンプが生まれた大きな節目の日となった。
今大会は黒人選手が大活躍した一方、米国の人種差別に抗議して、200mの表彰台で金メダルのトミー・スミス、銀メダルのジョン・カルロスが米国国旗から目をそらし、黒手袋の手を空に掲げた。
10月21日の国際陸連(IAAF)総会(メキシコシティー)では織田幹雄氏が新評議員に決定。そのあとで1国2人の評議員制をやめるインド案が可決され、浅野均一評議員が退任した。
国立で第1回太平洋沿岸5カ国対抗開催
1969年(昭和44年)、2月14日に日本体育協会はアマチュア規定を廃止し、競技団体に対応を委ねることにした。3月1日には陸連機構を簡素化する青木理事長の提案に伴い、競技本部を廃止、強化部長に帖佐寛章氏が就任した。3月27日には日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒徳委員長の後任に、青木半治理事長が就任。5月28日は竹田恒徳ユニバーシアード委員長の後任に、田島直人常務理事が就いた。7月2日には青木半治理事長が日本体協専務理事に就任し、JOC委員長を兼任した。
9月27、28日、米国、カナダ、豪州、ニュージーランド、日本による第1回太平洋沿岸5ヵ国対抗が東京・国立競技場で行われた。この大会の開催が決まったのは、1967年12月8日。大会の準備委員会が6日から3日間、東京都内のホテルで開かれ、各国の代表が協議。日本陸連は河野謙三会長、青木半治理事長が出席し、東京開催が決まった。
これより前には1964年に東京五輪の際の国際陸連(IAAF)総会で、日本陸連は「オリンピックの中間年に世界選手権を開催できないか」と提案。これは4年間にアジア競技大会と五輪しか海外で競技をする機会がない日本選手に、より多くの国際大会を経験させて強化を図ろうとする陸連の理念があった。だが、1966年9月のIAAF総会(ハンガリー・ブダペスト)で世界選手権の開催提案は否決され、新たに浮上した構想の一つが太平洋沿岸5ヵ国対抗だった。大会開催が決まった67年12月の準備委員会では、実施種目は男子20、女子12の計32種目。参加選手は1ヵ国40人(役員5、選手35)以内とすることなどを申し合わせた。大会は4年ごと。開催経費は主催国が負担し、招待競技会として実施されることになった。
第1回大会は2日間とも午後4時からナイターで行われた。32種目中、豪州が15種目で優勝。米国が11種目、カナダが3種目、ニュージーランドが2種目で1位となり、日本の優勝は5m10に成功した男子棒高跳の井上恭一郎(大昭和)だけにとどまった。3000m障害の猿渡武嗣(八幡製鉄)は8分35秒8で3位に入り、自身が1968年に出した8分38秒8の日本記録を更新。女子400mでは三嶋恭代(和歌山北高教)が予選敗退ながら、56秒5の日本新をマークした。
第54回日本選手権は9月19~21日に埼玉県上尾で開催。男子400mは友永義治(日立)が47秒7で勝ち、女子走幅跳は山下博子(三潴高)が6m25の日本新で3連覇。この大会から80mハードルは100mハードルに変えて実施された。
山田が悲願の8mジャンプ
1970年(昭和45年)は3月1日、第1回全日本大学駅伝対校選手権大会が名古屋熱田神宮~伊勢神宮コースで開催。日体大が優勝した。
6月7日には第10回実業団・学生対抗(神奈川小田原)の男子走幅跳で、6回目に山田宏臣(東急)が8m01(+1.1)の日本新。何度も挑んでは跳ね返された壁を突き破り、悲願の8mジャンパーの仲間入りを果たした。南部忠平が1931年にマークした7m98(当時世界記録)を39年ぶりに塗り替える快挙だった。
この大会の前には5月28~30日に東京・国立競技場で第54回日本選手権が開催された。ここでは山田は7m66の2位。7m81の小倉新司(岐阜北高教)に敗れていた。
6月13日には国産初の全天候舗装競技場が東京・世田谷区立総合運動場に完成。している。
第6回ユニバーシアード大会はポルトガル・リスボンの辞退により、イタリア・トリノで8月26日~9月6日に開催された。前回のホスト国日本に優勝はなく、2種目で銅メダルを得た。女子走幅跳の山下博子(中京大)は6m17(+1.7)で3位になり、優勝したハイデマリー・ローゼンダール(西ドイツ)は6m84の世界新記録を樹立。男子3000m障害は小山隆治(順大)が8分38秒0で3位になった。
8月31日の国際陸連(IAAF)総会(スウェーデン・ストックホルム)は人種差別がはびこる南アフリカを今後2年間、出場停止処分にすると決めた。
9月12日には春日弘名誉会長が86歳で死去した。
11月7、8日には第1回全日本ジュニア選手権(国立)を開いた。後に日本ジュニア・オリンピックと改称。
12月6日には福岡国際マラソンで宇佐美彰朗(桜門陸友会)が2時間10分37秒8の日本最高で優勝し、外国選手の5連覇を阻んだ。
アジア大会でマラソン君原連覇、金メダル19
12月9~20日には第6回アジア競技大会が前回に引き続き、タイの首都バンコクで開催された。当初は韓国・ソウルでの開催が決まっていたが、韓国の国内事情から返上。費用の3分の1を韓国、3分の1を日本、イスラエル、台湾、マレーシア、フィリピンその他の加盟国で分担することとし、再びタイで実施した。日本は帖佐寛章監督以下49選手が出場。目標に掲げた20種目の優勝に迫り、男子13、女子6の計19種目で金メダルを得た。
炎天下の男子マラソンで君原健二(新日鉄)が2連覇を達成した。気温25度、湿度77%の条件下、陸上6日目(12月15日)午前6時59分に14人がスタート。君原は御船芳郎(リッカー)、姜明光(韓国)のとの優勝争いを展開し、早めの仕掛けから抜け出し、2時間21分03秒0で制した。御船も2時間24分20秒8で2位に続いた。
これまで勝てずにきた男子100mで、神野正英(日大)が日本に初の金メダルをもたらした。陸上3日目(12月12日)の決勝は3回のフライングのあとスタート。神野は50mまで完全にトップだったが、アナト・ラタナポール(タイ)、カナガサバイ・クナラン(シンガポール)が追い込み、3者がほとんど同時にフィニッシュした。写真判定の結果、10秒5の同タイムで神野がこの種目で初の日本人王者となった。
このほかにも陸上初日(12月10日)から金メダルラッシュ。女子走幅跳で山下博子(中京大)が5回目の6m02を跳び、食あたりの不調を克服して金メダルを獲得した。円盤投は下痢に悩まされながらも八木下てる子(日女体大教)が47m70で優勝した。
陸上2日(12月11日)の男子400mハードルは茂田幸高(日体大)が52秒6で優勝。3000m障害は三浦信由(東洋ベアリング)が8分48秒8で制し、野呂進(日体大教)は8分50秒3で2位。1周目の4台のハードルをセットするのを忘れたままスタートしたが、大会本部はそのまま公式記録として発表した。4人が出場の男子ハンマー投は室伏重信(大昭和)が67m08の大会新で金メダル。石田義久(東洋工業)は64m34で2位に続いた。
陸上3日目。男子400mでは後半に追い込んだ友永義治(日立)が最後の直線で先行する2人を抜いて優勝した。日本選手で初めて47秒を切る46秒6の日本新を樹立する鮮やかなレースだった。男子110mハードルは出場5人中、フィニッシュしたのは3人という珍しいレースとなったが、渡部近志(竹下組)が14秒7で勝った
陸上4日(12月13日)の男子やり投は、下痢と発熱に苦しむ山本久男(富山商高教)が71m24で優勝。女子200mは100mとの2冠確実と見られた紀政(台湾)がこの日の400m決勝で脚を痛めた影響もあり、山田恵子(丸亀高・香川)が25秒0で優勝した。
陸上5日(12月14日)の男子十種競技は、前半から大きくリードした鬼塚純一(福岡大)が棒高跳で自己ベストの4m00を跳び、7073点の日本新で優勝した。8人が出場し、競技を完了したのは5人だった。女子走高跳は稲岡美千代(中大)が1m70の日本タイで勝ち、鈴木久美江(東洋大)は1m66で2位に続いた。
陸上6日の男子1500mは野呂進(日体大教)がラストの競り合いを3分53秒0で制し、今大会の中距離で初めて頂点に立った。男子棒高跳の井上恭一郎(大昭和)が4m80で日本勢6連勝を達成し、新谷誠規(順大)は4m60で2位。女子やり投の森田信子(日立)は49m84の大会新で優勝し、原咲子(中央発条)が48m12で2位となった。女子4×100mリレーの日本(小西恵美子、土田恵子、佐藤子、山田恵子)は2位のシンガポールに5mの差をつけ、47秒2で金メダル。男子4×400mリレーで日本(和久博至、島田清、猪俣広光、友永義治)は3分10秒0で快勝した。
財団法人認可
1971年(昭和46年)の3月、日本陸連は昭和45年度代議員会で法人化を決定。3月16日付で「財団法人 日本陸上競技連盟設立許可申請書」を文部大臣充てに提出し、4月24日に認可を受けた。
陸連ではその2年前から公益法人への改組の動きが始まっていたが、問題となったのは理事数だった。文部省からは理事数を20人以内とするよう求められたが、河野謙三会長と文部省の交渉によって「20~23人」とすることで決着した。日本陸連は東京五輪直後の1965年3月7日付で実業団連合、学連、高体連、中体連と新たな5者協定を結んでおり、その中に各団体から2人ずつ日本陸連の理事とすることなどが盛り込まれていた。法人化に当たっては会長、専務理事、常務理事で31人、理事22人の計53人からどう23人に絞り込むかが大きな課題となった。このため、5者協定の改定は避けられないことになり、協力団体からの理事は0とし、1人ずつ議決権のない連絡理事の派遣を求めることに改めた。設立時の態勢は河野謙三会長、青木半治専務理事、理事21人、監事2人となった。
第55回日本選手権は5月28~30日に国立競技場で開催。男子3000m障害は小山隆治(クラレ)が8分32秒4の日本新で圧勝した。男子走高跳はベリーロールの冨沢英彦(蚕糸高教)が2m20、女子400mの河野信子(ユニチカ)は55秒7の日本新をそれぞれ樹立して優勝した。女子円盤投の八木下てる子(越ケ谷教委)が51m08の日本新で4連覇した。
10月31日には日ソ親善陸上が実業団東西対抗を兼ねて佐賀で開かれ、福岡、東京でも開催された。
ミュンヘン五輪、君原5位入賞
1972年(昭和47年)はミュンヘン五輪イヤー。第56回日本選手権は6月2~4日、国立競技場でミュンヘン五輪の最終選考会を兼ねて開催された。男子100mは神野正英(新日鉄)と石沢隆夫(早大)が雨の中で激突、石沢が10秒7で、10秒8の神野を下した。女子砲丸投の林香代子(中京大)が15m65の日本新をマークした。
3月19日に日本選手権を兼ねて滋賀県大津市で行われた毎日マラソンでは宇佐美彰朗(桜門陸友会)が2時間20分24秒で優勝。2位に入った君原健二(八幡製鉄)、3位の采谷義秋(広島県教育委)とともに、ミュンヘン五輪のマラソン代表に選出された。
4月1日には浅野均一、織田幹雄の両氏が名誉会長となった。
8月26日、第20回オリンピック大会が西ドイツ(当時)のミュンヘンで開幕し、9月11日まで実施された。複数のアフリカ諸国は公然と人種差別を行うローデシアの参加を巡ってボイコットの動きをみせた。開幕直前の22日に行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会でローデシアを資格停止として五輪参加を認めなかったことで、事態が収拾。
こうして始まった大会の9月5日の休養日、パレスチナのゲリラ「黒い9月」が選手村のイスラエル宿舎を襲撃。2人を殺害、9人を人質にして逃亡を図った。警察当局との銃撃戦となり、人質全員が死亡する最悪の事件が起きた。翌日は競技を中止して追悼式が行われ、9月7日に再開された。
陸上は苦戦が続き、入賞の0のまま迎えた最終日の男子マラソン。最も期待されたのが宇佐美彰朗(桜門陸友会)だった。宇佐美は序盤、積極的に前方でレースを展開した。メキシコ五輪銀メダルの君原健二(新日鉄)は第2集団、采谷義秋(広島県教委)はさらにその後方につけた。20kmではフランク・ショーター(米国)が後続に200mの差をつける独走態勢。そこから追い上げたのが君原で、40kmを過ぎて5位に浮上。首を左右に振って奮闘し、そのままの順位でフィニッシュ。2時間16分27秒0で5位入賞を果たした。宇佐美は2時間18分58秒0の12位、采谷は2時間25分59秒0の36位だった。ショーターは2位に2分以上の差をつけ、2時間12分19秒8で金メダルを獲得した。
男子ハンマー投決勝で室伏重信(大昭和)は2投日に70m88をマークし、8位でベスト8に進出。4投目以降に伸ばせず、そのまま8位。入賞の6位との差は32cmだった。
男子3000m障害では小山隆治(クラレ)が予選で8分29秒8の日本新をマーク。1組3着で決勝に進出し、決勝は8分37秒8の9位に入った。同三段跳でも井上敏明(法大)は16m49の自己新で、16m20予選通過標準記録を突破。決勝は1回目の15m88(+1.7)が最高で12位となった。同走高跳でも冨沢英彦(蚕糸高教)は予選を突破したが、決勝は2m05の19位だった。
10月22~27日の第27回国体は鹿児島で開催。この国体で大会旗リレーは取りやめとなった。
1973年(昭和48年)3月4日、陸連は強化新12年計画を承認した。
記事提供:月刊陸上競技


