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日本陸上競技連盟史

激動期:1973年度~1984年度

1973年度~1984年度
昭和48年4月~昭和60年3月

アジア選手権初開催

 1973年(昭和48年)5月3~6日、沖縄が前年に本土復帰を果たしたことを記念する「沖縄特別国体」が開催された。

 6月1~3日に第57回日本選手権が千葉県スポーツセンターで開催。男子砲丸投で青木正純(越ケ谷ク)が6年ぶりに日本記録を更新する16m71で6連覇した。

 6月27、28日には第2回太平洋沿岸5ヵ国大会がカナダのトロントで開催された。日本は男子10000mで佐藤市雄(旭化成)が3000mからトップを守って29分21秒0でただ1人の金メダルを獲得した。

 男子100mでは神野正英(新日鉄)が10秒6の2位。ハンマー投の石田義久(東洋工業)は62m96、女子走高跳の曽根幹子(東洋大)は1m71、砲丸投の林香代子(中京大)は15m14、やり投の高坂美恵子(日体大教)は49m62で2位になり、5種目で銀。男子4×100mリレー(新間一夫、石沢隆夫、岩本一雄、神野正英)が40秒6で3位に入ったほか、3000m障害の小山隆治(クラレ)が8分39秒2、走高跳の冨沢英彦(蚕糸高教)が2m09、やり投の恩田実(日本飲料)が68m28で3位になった。女子1500mで7位の河野信子(ユニチカ)は4分25秒6の日本新をマークしている。

 米国は女子800mのメアリー・デッカーら全32種目のうち男子14、女子6の計20種目で優勝する強さを発揮した。

 日本チームはこの後にカナダを転戦し、男子100mで神野が10秒1の日本タイ、女子400mで河野が女子400mで54秒4、800mで2分05秒1の日本新を出した。

 8月15~25日には第7回ユニバーシアード競技大会(ソ連・モスクワ)が開催。男子100mでは石沢隆夫(早大)が決勝に進み、10秒68で8位だった。男子三段跳は井上敏明(日立)が15m91で6位。十種競技の鬼塚純一(福岡大)は7222点で11位。女子ではやり投の高坂美恵子(日体大教)が52m14で6位になり、走高跳の山下博子(中京大)が6m15で8位だった。

 9月22日には国立競技場が全天候舗装材(ウレタン)に改装された。

 10月14~19日の第28回千葉国体は県営競技場が国体初の全天候舗装路で実施された。

 11月18~23日には第1回アジア選手権がフィリピンのマニラ市郊外マニキナで開催された。大会直前に行われたアジア陸上競技連盟(AAAA)の設立総会は憲章審議をめぐって参加13の国の地域の足並みがそろわず、大会後半の22日未明の審議でようやく承認。1962年のジャカルタ・アジア競技大会の際に設立案が提出されてから11年目に結成され、国際陸連(IAAF)の正式な地域協会としてアジア地域の競技会を統括、世界記録、アジア記録も公認されることになった。

 大会には15ヵ国・地域の選手が参加。日本は男子18人、女子12人が出場した。金19、銀、銅とも各8個のメダルを獲得した。金メダル数は2位のインドの4個を大きく上回り、全体のトップとなった。

 男子は5000mでは佐藤市雄(旭化成)が14分16秒19で勝ち、10000mも29分54秒4で制して長距離2冠に輝く。400mで友永義治(日立)が46秒8、110mハードルで大木繁男(釜戸中教員)が14秒3、3000m障害の小山隆治(クラン)が9分04秒0でそれぞれ勝ち、1500mは水野一良(大阪ガス)が3分47秒4で優勝。棒高跳の鈴木寿喜(中京大)が4m36で1位。20km競歩の森川嘉男(兵庫ユニック英会話)は距離の間違いでタイムなしながら優勝した。4×100mリレーは40秒0の日本タイ、4×400mリレーは3分10秒2で快勝した。

 女子は400mの河野信子(ユニチカ)が55秒2の日本新で優勝し、800mは2分8秒1で2冠を達成。100mハードルの林田智美(中大)は13秒6、200mハードルは27秒6のいずれも日本新で2種目制覇した。走幅跳の川田久美(新日鉄)は6m07、やり投の高坂美恵子(日体大教員)は49m74で1位。200mは森田美子(鹿児島女高)が24秒7で制し、1500mでも井上美加代(日体大)が4分26秒8の日本新で勝った。4×100mリレーも46秒7で1位になった。

 100m予選で岩本一雄(千葉下総町役場)が10秒1、準決勝でアナト・ラタナポール(タイ)が10秒0、石沢隆夫(早大)が10秒1など、好記録を出したが、大会事務局は風速計を読み違えたとしていったん追い風参考記録と発表。後に正式記録に訂正するなど運営面での未熟さも見られた。

全中スタート、テヘラン・アジア大会で金10個に減らす

 1974年(昭和49年)は9月1~16日に第7回アジア競技大会がイランのテヘランで開催された。国際陸連(IAAF)は1962年2月16日付で中国の脱退届を受理し、非加盟国の中国とは一切の競技を行わないよう、各国に通達を出していた。この交流禁止の規則を破るかたちでパキスタンが中国をペシャワールの大会に招待。これにイラン、エジプトが出場し、アジア大会前の5月8日にローマで開かれたIAAF緊急評議会でどのような判断がされるのかが注目された。パキスタンは3ヵ月の資格停止となったがイラン、エジプトは処分せず、アジア大会は問題なく開催。IAAFは非加盟国の中国との交流も条件付きで認め、第7回アジア競技大会に中国も初出場を果たした。

 陸上は9月9日~15日に実施され、日本は安田誠克団長、小掛照二監督以下、男子29、女子18選手が参加。金メダルは前回の19個から男子6、女子4の計10個に減った。中国の活躍は予想ほどではなかったものの、5種目で優勝。総メダルは日本の32個に次ぐ21個で国・地域別で2位だった。

 男子の棒高跳では17歳の木川泰弘(三豊工高・香川)が優勝した。木川は5m00をクリア。蔡長希(中国)は2回目に成功した。リードした木川は5m05をパス、5m10の記録を持つ蔡はここで3回とも失敗し、蔡と同じ5m00ながら木川が優勝した。日本勢はこの種目、7連覇となった。

 ハンマー投では室伏重信(大昭和)が2連覇を果たした。改修後のサークルの状態が悪く、スピードのある回転ができず、優勝記録は66m54にとどまった。やり投では山田敏広(ユニチカ)が76m12の大会新、恩田実(日本飲料)が76m04で2位に続き、ワン・ツーを飾った。

 テヘランは平均標高1200mの高地で、空気も乾燥している。10000mの浜田安則(鹿児島中央高教)は速いペースを警戒し、シブナト・シン(インド)を徹底してマーク。ラスト700mで飛び出し、30分50秒0で優勝した。服部誠(東農大)が31分03秒8で3位。3000m障害の小山隆治(クラレ)は8分58秒0で快勝した。三段跳は井上敏明(日立)が16m45で、日本勢2大会ぶりの王座奪還を果たした。

 男子100mでは神野正英(新日鉄)は10秒55の2位で、2連覇を逸した。200mでも石沢隆夫(早大)が21秒60で2位。両種目ともアナト・ラタナポール(タイ)が制し、4×100mリレーを含むスプリント3冠を獲得した。

 女子では河野信子(ユニチカ)が奮闘した。井上美加代(鼎ヶ浦高教)とともに出場した800m。1周目を終えてイスラエル選手に先行されたが、日本の2人は慌てず、中国勢とともに追い上げて優勝争いに持ち込んだ。フィニッシュ前100mでスパートし、河野が2分08秒05で優勝、井上も2分09秒00で2位に入った。河野は400mでも55秒59で銀メダルを獲得。

 5チームで争った4×400m決勝で日本(北林裕子、大塚陸子、井上美加代、河野信子)は3分43秒5の日本新で優勝した。故障から回復したばかりの北林がシンガポール、中国に次いで3番手だったが、大塚が200mでトップに立ち、井上、河野も先頭を守った。同じく5チームが出場の4×100mリレーで日本(大和サヨ、林田智美、小西恵美子、山田恵子)は46秒62の日本新で3連覇を果たした。小西が好走してトップでアンカー山田に引き継ぎ、快勝した。五種競技は清水鏡子(日体大)が3890点で優勝した。2位の孫玉香(中国)とは41点差の接戦だった。

 走高跳は曽根幹子(東洋大)が3回目に日本タイの1m78に成功。1m80は失敗したものの、1位と同記録で銀メダルを得た。日本勢が過去6大会全勝のやり投は、高坂美恵子(日体大ク)が52m02で2位にとどまった。周毛加(中国)が53m06の大会新で勝った。
 1972年ミュンヘン五輪のテロ事件を受け、選手村は金網で隔離され、各会場とも厳重な警備態勢が取られた。

 第58回日本選手権は5月31日~6月2日、東京・国立競技場で実施。女子走幅跳の山下博子(福岡北部指導者ク)が6m10で8連覇した。

 8月17、18日には第1回全国中学校陸上選手権大会が国立競技場で開催された。

国立で第1回日中対抗陸上

 1975年(昭和50年)は日中対抗陸上が実現し、10月12日、東京・国立競技場で第1回大会が開かれた。中国にとっては文化大革命の混乱から収束へと向かう過程で迎えた大会。男女21種目に2人ずつの代表が出場、各種目とも1位から4、3、2、1点(リレーは4、2点)の得点計算で争われた。日本は帖佐寛章氏が監督を務め、総合116.5点-81.5点で勝った。雨のため記録的には今ひとつだったが、男子棒高跳の高根沢威夫(本田技研)は5m31の日本新で優勝した。100mの神野正英(新日鉄)は10秒5で勝った。400mは水野利夫(高崎工教)が47秒1で1位になり、オープン参加の長尾隆史(岡山工高)が日本歴代2位の46秒8をマークした。

 1500mは石井隆士(日体大)が3分48秒0、5000mは喜多秀喜(神戸製鍋)が14分03秒6で勝った。4×100mリレーも日本(中村要一、岩本一雄、新帯哲美、神野正英)が40秒3で優勝した。フィールドでは走高跳で越川一紀(順大)が2m14、三段跳は小林裕信(北教大教員)が15m56、ハンマー投は室伏重信(大昭和)が69m18、やり投は島田敏幸(中京大)が77m04で優勝した。

 女子は100mで松下さゆり(高鍋高教)が12秒0、400mでは長沢恵子(西田川高)が57秒0、1500mも今野美加代(田尻高教)が4分28秒3で1位となり、100mハードルの太宰知子(大阪体大)が14秒2、4×100mリレーも日本(森田美知子、大迫夕起子、坪田ゆき子、松下さゆり)が46秒7で優勝。走高跳は曽根幹子(大昭和)が1m70、走幅跳は湶純江(上田市陸協)が6m21で勝った。中国は砲丸投、円盤投で強さを発揮。やり投は高坂美恵子(日体大教)が54m10で優勝した。日本は3種目を落としたのみの快勝だった。

 大会後には10月16日に福岡、19日に大阪で日中親善競技会が行われた。福岡では棒高跳の高根沢成夫が5m41、大阪では曽根幹子が1m84、1500mの今野美加代が4分21秒0とそれぞれ日本新を樹立した。曽根は11月には1m85に日本記録を塗り替えた。

 5月30日~6月1日に国立競技場で行われた第59回日本選手権で、高根沢は5m20で優勝した。この大会では高尾信昭(鐘紡)が5000m、10000mの2冠。女子100m、200mは大迫夕起子(鹿児島女高)が2種目制覇を果たした。

第2回アジア選手権、金15個

 6月9~14日には第2回アジア選手権が韓国・ソウルで開催。日本は地元韓国を上回り、最大の65人の選手団を派遣。男子中距離の石井隆士(日体大)は800mでは400m優勝のスルラム・シン(インド)に敗れて1分48秒4で2位だったものの、1500mは3分48秒6で優勝するなど、日本は39種目中金メダル15個を獲得した。男子棒高跳は岩間良臣(沼津ろう学校教)が5m20で優勝し、女子五種競技の清水鏡子(四日市暁中教)が4064点の日本新で勝った。男子の5000mで伊藤国光(鐘紡)は14分00秒8で優勝。三段跳の吉本敏寿(中京大)は15m87、小林裕信(北海道教大)は15m83、やり投の山田敏広(ユニチカ)は74m92、島田敏幸(中京大)は72m68でそれぞれ1、2位を占めた。ハンマー投の石田義久(東洋工業)は62m84で制した。4×400mリレー(長尾、友永、松枝、水野)では2位ながら3分08秒9の日本新をマークした。

 女子では走高跳の土屋久江(大昭和)が1m74で1位、稲岡美千代(大京観光)も同記録の2位。走幅跳の小川恵子(名女大)が6m15で勝った。やり投の明貝恵子(四日市南高教)は53m48で1位になった。

 ユーゴスラビア・ベオグラードで開催予定のユニバーシアード大会が財政上の理由で中止。イタリア・ローマで世界大学陸上競技選手権として8月18~21日に実施され、日本から4人が参加した。

 この年、3月2日には青木半治専務理事が副会長にも就任。同26日には陸連の河野謙三会長が日本体協会長に就いた。陸連は全天候舗装陸上競技場が増加したことに対応し、4月1日には全天候舗装陸上競技場規程を制定した。

 参議院議長でもあった河野氏は日中対抗が実現したのを受け、10月15日に「政務、日本体協会長など多化であり、長すぎた会長をやめるのはいい機会だ」として辞意を表明し、6期11年務めた会長を辞任した。

 日本陸連は11月15日の理事会で、青木副会長兼専務理事の会長昇格を決定した。河野氏は名誉会長となった。

モントリオール五輪、入賞0

 1976年(昭和51年)はモントリオール五輪イヤー。6月4~6日の第60回日本選手権(東京・国立競技場)は五輪最終選考会を兼ねて開かれ、男子10000mで鎌田俊明(鐘紡)が28分33秒4と五輪参加標準記録を突破。5000mとの長距離2冠を成し遂げた。800m、1500mは石井隆土(日体大)がいずれも快勝。円盤投の川崎清貴(大昭和)は54m02の日本新を樹立した。女子の大迫夕起子(鹿児島女高)が100mを11秒78、200mを24秒38でともに日本新を樹立。2年連続の2種目制覇となった。

 7月17日~8月1日、第21回オリンピック大会がカナダ・モントリオールで開催された。日本はミュンヘン大会と同様に帖佐寛章監督以下、男子13人、女子2人の陣容で大会に臨んだ。だが、予選を通過したのは、男子棒高跳の高根沢威夫(本田技研)、同ハンマー投の室伏重信(大昭和)の2人だけ。5000mで鎌田俊明(鐘紡)が自己ベストを出したものの、他の選手は自己記録にも遠く、ローマ大会以来の入賞0。またも出直しを迫られる大会となった。

 棒高跳で5m41の日本記録を持つ高根沢は陸上第2日(7月24日)の子選で5m00、5m10とも1回でクリアして決勝へ。第4日(7月26日)の決勝では5m00から跳びはじめ、5m20、5m30とも2回目に成功。雨が落ちてきたなか、5m40に挑み、2回目まで失敗。3回目はリズミカルな助走から鋭く突っ込み、体は大きくはね上がって余裕をもってバーを越えた。5m45は3回とも体が横に流れて失敗。5m40で8位だった。6位入賞には5cm、1位から3位までは5m50で、高根沢との差は10cmだった。

 ハンマー投の室伏は予選で68m84。通過記録の69m00に14㎝足りなかったが、到達した選手が10人だったため、室伏はプラスで決勝に進んだ。決勝は1投目ファウルに続く2投は68m62、68m88。70mに届かず、ベスト8に残れなかった。4回転ターンに変えてから発展途上で迎えた大会は11位だった。ユーリー・セディフ(ソ連)が77m52で金メダル。

 5000mの鎌田は予選1組に出場し、13分38秒22の自己新を出しながら8着で落選。10000mも予選3組で粘れず、28分36秒21の7着で突破ならず。ラッセ・ビレン(フィンランド)が5000m13分24秒76、10000m27分40秒38で、2大会連続の2冠に輝いた。

 人種差別政策をとる南アフリカとラグビー交流があるニュージーランド排除の要求が却下され、アフリカの23ヵ国が大会をボイコット。中華民国(ROC)の呼称での出場を拒否された台湾が選手を引き揚げる、という政治が絡んだ紛争もあった。

 北京で開催予定の第2回日中対抗は、9月9日に毛沢東主席の死去が公表されて中止。現地入りした青木半治団長以下、約60人の選手団は帰国した。

 陸連は次回1980年モスクワ五輪に向けて「モスクワ・オリンピック特別委員会」を設置。臼木信雄専務理事が委員長となった。

アマチュア規則改正、ゼッケン広告承認

 1977年(昭和52年)3月6日、日本陸連はアマチュア規則を改正し、ナンバーカード広告を承認する。10月28~30日に東京・国立競技場で行われた第61回日本選手権では史上初めて「CMゼッケン」が登場した。この大会では男子400mハードルの長尾隆史(筑波大)が51秒11、女子400mの前田智子(ユニチカ)が56秒07の日本新をマークした。女子800mでは吉富純子(熊本・船津中)が2分10秒5の中学新で勝ち、初の中学生チャンピオンが誕生。男子砲丸投の青木正純(越ヶ谷ク)は10連覇を達成した。

 6月3日のフィンランド・ヘルシンキでの競技会の男子10000mで鎌田俊明(鐘紡)が27分48秒6の日本新をマーク。日本選手初の27分台突入となった。

 8月17~28日にユニバーシアード大会がブルガリアのソフィアで開催された。日本は関岡康雄監督以下男子14人が参加。男子走高跳の越川一紀(順大)が2m13で9位になったのが最高順位だった。

 9月2~4日には地域別対抗戦の第1回ワールドカップ(W杯)が西ドイツのデュッセルドルフで開催。男子1500mの石井隆士(日体大教)が3分38秒24の日本新で5位に入った。国際陸連(IAAF)総会で安田誠克理事が評議員に選出された。

 9月19日には前年中止となった第2回日中対抗が北京で開催された。中国が139-112で勝ち、1勝1敗となった。男子は200mの豊田敏夫(新日鉄)が21秒59、400mの原田康弘(日体大)が47秒47で制するなど9種目で優勝。女子は200mの大迫夕起子(大昭和)が25秒54、走高跳の八木たまみ(関東学園大)が1m82で勝つなど4種目を制した。日本チームはこの後、22日に南京、25日に上海で日中親善競技会を行った。

 12月3、4日には第3回太平洋沿岸5ヵ国大会が豪州・キャンベラで開催された。男子1500mで石井隆士(日体大教)が3分45秒08で優勝し、走高跳は越川一紀(順大)が2m17で制した。円盤投の川崎清貴(大昭和)は57m44の日本新で2位、400mの原田康弘(日体大)は予選で46秒45の日本新をマークした。

 女子砲丸投の林香代子(熊本高教)は16m00の日本新で2位。男子の4×100mリレー(原田康、原田彰、松浦成夫、豊田)は39秒54、4×400mリレー(松浦、原田康、長尾隆史、柴田俊一)は3分08秒0の日本新で、ともに米国に次ぐ2位。女子400mリレー(岡田和子、秋元恵美、田中輝代、小西恵美子)は日本新の46秒45を出した。

宗茂が初の2時間10分切り、第1回8ヵ国対抗陸上開催

 1978年(昭和53年)、2月5日の第27回別府大分毎日マラソンで宗茂(旭化成)が日本勢で初めて2時間10分を切る2時間9分05秒の日本最高をマークして優勝。日本伝統の男子マラソンが新たな時代へと突入した。

 9月10日には第3回日中対抗が国立競技場で開催された。女子の走高跳で八木たまみ(関東学園大)が1m88の日本新を出し、400mの長沢恵子(新日鉄)が54秒97、4×100mリレー(阿万亜里沙、秋元恵美、小西恵美子、貝原澄子)では46秒38のともに電気計時日本新を出した。貝原澄子(日大)は200mで25秒05で3連勝。100mは12秒43で勝った。日本女子の優勝は14種目中5つで、中国勢の躍進が目立った。

 男子は4×100mリレー(河野敬二、原田彰、原田康弘、豊田敏夫)を40秒21、4×400mリレー(名取英二、原田康、長尾隆史、半田昌一)を3分10秒6とそれぞれ大会新で優勝するなど18種目中13種目を制覇。対抗得点では152―149で日本が辛勝した。

 大会後の親善大会は15日に北九州、17日に静岡で行われることになっていたが、北九州大会は台風18号の影響で風雨が強くなり、途中で中止。静岡では400mハードルの長尾が50秒4、円盤投で川崎清貴(大昭和)が58m50の日本新を出した。

 9月25日には第1回8ヵ国対抗が国立競技場で開催された。米国、ソ連、西ドイツ、英国、フランス、イタリア、ポーランド、日本が参加。プロモーターが中心となってスポンサーから資金を集め、その名称を冠するアマチュアスポーツ初の「冠(かんむり)大会」となった。大会名は「8ヵ国対抗・デサント陸上大会」。財務的な責任を担ったテレプランニング・インターナショナルが企画協力して約4億円の資金を調達。5時間に及ぶテレビ中継が実施された。平日の開催ながら走高跳で2m33の世界記録を持つウラジミール・ヤシチェンコ(ソ連)らが出場して注目度が高まり、約7万人の観衆が集まった。対抗得点は男女29種目中男子で8、女子で5種目を制したソ連が149点で1位になった。

 日本勢は優勝こそなかったものの、男子400mハードルで長尾隆史(筑波大)が初めて50秒を切る49秒59の日本新で2位。男子4×400mリレー(名取英二、原田康弘、長尾、臼井淳一)は3分06秒5で3位になり、女子4×100mリレー(大迫夕起子、秋元恵美、小西恵美子、貝原澄子)は46秒21(7位)、女子400mの長沢恵子(新日鉄)が55秒90(8位)をマークし、それぞれ日本記録を塗り替えた。

 10月5日には中国が20年ぶりに国際陸連(IAAF)復帰を果たした。

 10月28、29日の第62回日本選手権は東京・国立競技場で開催。喜多秀喜(神戸製鋼)が5000mで13分39秒5、10000mは28分29秒2で2種目制覇を果たした。

第8回アジア大会で日本は金メダル10個、優勝12の中国に覇権譲る

 12月9~20日には第8回アジア競技大会がタイ・バンコクで開催された。バンコクでの開催は第5、6回に続いて3度目。1976年4月にシンガポール・クアラルンプールで開かれたアジア競技連盟(AGF)の実行委員会で、警備上の困難を理由にイスラエルの大会からの除外を決議。これに対し、国際オリンピック委員会(IOC)は大会を承認しないとし、国際陸連(IAAF)も「イスラエル抜きの大会の陸上競技は公認しない。非公認の競技に参加した選手は出場停止処分を受ける」と警告していた。

 日本陸連は11月28日に東京都内で理事、顧問、審判員で構成する役員会を開き、アジアの友好と開催地の混乱を避けるため、資格停止処分を覚悟した上で参加することを決めた。しかし、日本陸連はIAAFと折衝した結果、①選手の自動的資格停止は行わない、②処分は1979年1月下旬の臨時評議員会で日本などの事情説明を受けたのちに検討する、という2点を確認した上で参加している。

 陸上は9月14日から6日間行われ、日本は朝隈善郎監督以下、53選手(男子33、女子20)を派遣した。陸上3日目までに18種目を終了した時点で金メダルは1個だけだったが後半、盛り返した。朝隈監督が掲げた「16か17は取る」との金メダル目標には届かなかったものの、10個(男子9、女子1)を確保。前回から参加した中国が躍進し、12個を獲得した。

 期間中は30度前後の暑さが続く中、男子のハンマー投で出場4度目の室伏重信(日大教)が4投目に68m26の大会新をマークし、アジア大会の個人種目では初の3連覇を達成した。北野洋二(観音寺商高教)も63m96で2位になった。棒高跳は高橋卓巳(中京大)が5m10で優勝して第1回大会から続く日本勢の連覇を8に伸ばした。走高跳の阪本孝男(筑波大)は2m20で1位、越川一紀(順大)は2m18で2位になり、三段跳は中西正美(日体大)が16m56で優勝した。

 トラックの男子は1500mの石井隆士(日体大陸桜会)が3分47秒5で勝ち、3000m障害は新宅雅也(日体大)が8分40秒7で制した。4×400mリレー(名取英二、臼井淳一、原田康弘、長野隆史)では3分08秒3で金メダル。午前6時スタートのマラソンは阪本峰照(日立造船)が2時間15分29秒7の大会新で勝ち、十種競技は岩井寿史(板倉高教)が7003点で制した。

 女子4×400mリレー(久保田真由美、木口真佐江、前田智子、長沢恵子)は3分46秒29で女子唯一の金メダルを獲得。走高跳では10月の長野国体で1m90の日本新をマークした八木たまみ(関東学園大)が1m82で2位を占め、100mの大迫夕起子(大昭和)は1位と0.01秒差の12秒21で銀メダルを手にした。100mハードルの茂木多美江(小諸高教)は14秒23、やり投の渋沢奈保美(東女体大)は54m98で、それぞれ2位。4×400mリレー(大迫、前田、小西恵美子、櫛淵淳子)は46秒78で2位を占めた。

 1979年(昭和54年)1月19日、英国・ロンドンで開かれたIAAF緊急評議員会で、非公認とした前年のバンコク・アジア大会に参加した選手、アジアの各陸連に対する処分問題を討議した。選手については1978年12月14日から79年1月19日(会議当日)までの資格停止処分とした上で、処分選手の名前は公表しないことを決めた。参加した21の陸連は1978年12月14日から3月14日までの資格停止処分とし、この間は国際競技会の主催と選手の派遣を禁じられた。

 これに伴い、2月の別府大分毎日マラソン、京都マラソン、青梅マラソンの海外選手の招待は取り消しとなった。米国の室内大会に招かれた選手団も出場できない事態になり、1月20日の第20回サンキスト招待室内大会参加のため、渡米中の小掛照二監督ら日本チームは大会に出場せずに帰国した。

 3月4日の日本陸連評議員会で、臼木信雄専務理事は辞任を表明。後任は帖佐寛章企画部長。4月1日には副会長に及川伊之助氏、藤枝昭英氏、安田誠克氏が就いた。国際オリンピック委員会(IOC)はオリンピック功労賞銀賞を陸連名誉副会長の織田幹雄氏に贈ることを決めた。

東京で第3回「アジア陸上」開催

 1979年(昭和54年)5月31日~6月3日、アジア陸上競技大会を東京・国立競技場で開催された。もともとは1977年に第3回アジア選手権が行われる予定だったが、イスラエルを巡る国際情勢から開催できず、今回は地域別対抗戦のワールドカップ(W杯)第2回大会(カナダ・モントリオール)のアジア代表選考会を兼ねるかたちで大会が実施されることになった。しかし、イスラエルを招待しないため、「選手権」の名称を使用せず「アジア陸上競技大会(アディダス陸上)」として開催することになった。

 開幕に先立って5月30日にアジア陸連(AAAA)の総会が東京で開かれ、任期満了にともなう役員改選で、新会長に陸連の安田誠克副会長が会長に就任した。

 この大会で国交のない中東のガザ、北朝鮮の取り扱いを巡っても難航した。1978年の国際陸連総会(プエルトリコ)で加盟を認められたガザ選手団の入国に政府が難色を示し、アジア陸連の安田新会長が奔走した結果、最終的には選手らの居住地のパスポートで入国を承認された。北朝鮮の旗の掲揚について政府が当初は許可しなかったが、競技場に限って承認するという妥協案が成立。無事に大会の開幕にこぎつけた。

 大会には23ヵ国・地域の選手、役員約400人が参加。前年のバンコク・アジア大会では日本の優勝は10種目だったが、今回は地の利を生かして20種目を制した。中国はアジア大会で12個の金メダルを得たが、今回は7種目の優勝にとどまった。

 男子は10000mで瀬古利彦(早大)が28分59秒2で優勝し、伊藤国光(鐘紡)が29分00秒2で2位、宗猛(旭化成)が29分02秒5で3位に入った。このほか、200mは原田康弘(白石工高教)が21秒34、志藤俊三(日体大)が21秒38、豊田敏夫(新日鉄)が21秒39、走高跳は越川一紀(君津高教)、阪本孝男(筑波大)、片峯隆(福岡大)が同じ2m15、棒高跳は高根沢威夫(本田技研)が5m25、高橋卓巳(中京大)は5m10、木川泰弘(順大)は5m00でそれぞれ1、2、3位を占めた。

 400mの半田昌一(日体大)は47秒45、5000mの喜多秀喜(神戸製鋼)は13分55秒3、110mハードルの藤森良文(早大)は14秒29、3000m障害の新宅雅也(日体大)は8分40秒8で優勝。走幅跳の臼井淳一(順大)は7m97、円盤投の川崎清貴(大昭和)は55秒34、ハンマー投の室伏重信(日大教)は66m72、十種競技の笠井淳(リーベルマン)は7096点で1位になった。4×100mリレー(原田康、臼井、志藤、原田彰)も39秒70で勝った。

 女子では100mの小西恵美子(烏山女高教)が12秒09、200mの貝原澄子(日大)が24秒45で勝ち、4×100mリレー(大迫夕起子、貝原、小西、秋元恵美)は45秒85のアジア新で制した。400mハードルの青井由美子(関東学園大)も60秒48のアジア新で金メダル。100mハードルは秋元恵美(国士舘大)が14秒17、走幅跳は湶純江(スズキ自動車)が6m42(追い風参考)、4×400mリレー(飯塚芳江、木口真佐江、波多野浩美、青井)は3分45秒9で1位になった。

 7月1日には第4回日中対抗が北京で行われ、中国が158-144で勝った。男子の走高跳の片峯隆(福岡大)が2m22の日本タイで優勝。200mは原田康弘(白石工高教)が21秒35、400mの名取英二(筑波大)が47秒46、1500mの元山潤次郎(大昭和)が3分47秒1、5000mは佐藤市雄(旭化成)が14分06秒2で優勝した。110mハードルの藤森良文(早大)は14秒23、3000m障害の岩淵仁(水戸三高教)が8分47秒0で制した。4×100mリレー(河野敬二、原田彰、原田康、志藤俊三)は40秒31、4×400mリレー(名取、三辺忠雄、吉松幸宏、半田昌一)は3分12秒8で1位になり、トラックで強さを発揮した。フィールドでも片峯のほか、円盤投の川崎清貴(大昭和)が57m58で優勝した。

 女子の優勝は3種目。200mの貝原澄子(日大)が24秒86、400mの飯塚芳枝(東女体大)が56秒22、4×400mリレー(中野智子、秋元恵美、大迫夕起子、貝原)が46秒44で制した。

 7月6日にパリで行われた国際大会で男子走幅跳の臼井淳一(順大)は8m10の日本新を樹立した。

 9月2日~13日にはメキシコ市で第10回ユニバーシアード大会が開催され、走幅跳の臼井は8m05で銀メダルを獲得した。

 第63回日本選手権は10月27、28日に東京・国立競技場で開催。男子200mの豊田敏夫(新日鉄)が20秒93の日本新を樹立した。100mも勝ち、スプリント2冠を達成。女子では、3000mで兵庫・豊岡南中3年の瀬渡加奈子が9分40秒2の日本新、400mハードルでは青井由美子(関東学園大)が日本人初の60秒切りとなる59秒72の日本新で勝ち、100mハードルでは秋元恵美(国士舘大教)が13秒81の日本タイで勝った。

 11月18日には初の国際陸連公認の女子マラソン、第1回東京国際女子マラソンが国立競技場発着で行われた。ジョイス・スミス(英国)が2時間37分48秒で優勝した。

 12月2日のモスクワ五輪代表選考会を兼ねた福岡国際マラソンで瀬古利彦(早大)が宗茂、宗猛(ともに旭化成)と終盤まで激しく競り合い、瀬古が2時間10分35秒で優賞。2位の宗茂、3位の宗猛とともにモスクワ五輪代表に選ばれた。

モスクワ五輪ボイコット

 1980年(昭和55年)、モスクワ五輪の男子マラソンで、絶頂期にあった瀬古利彦、宗茂、宗猛の日本人トリオは世界を相手にどんな走りを見せてくれるのだろうか――。メダル独占も可能なのではないか――。大きく膨らんだ期待は、米国など西側諸国に歩調を合わせて日本はボイコットに踏み切ったことで、しぼむことになる。

 発端は1979年12月27日、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻。米国はこれに強く反発し、ジミー・カーター大統領が1980年1月4日、モスクワ五輪のボイコットも辞さない方針を表明した。カーター大統領は1月20日にはソ連軍が1ヵ月以内に撤退しない場合、オリンピック開催地を他国に移すか、米国が大会をボイコットする、とした米国政府の立場に同調するよう日本を含む世界各国に求めた。

 日本政府は2月1日、日本オリンピック委員会(JOC)に対して適切に対応するよう要望。一方で同12日の国際オリンピック委員会(IOC)総会ではモスクワ五輪の予定通りの開催が確認された。

 4月12日には米国オリンピック委員会が大統領の意向通りに不参加を決定した。JOCでは4月21日に岸記念体育会館で強化コーチや候補選手が意見を出し合う会議が開かれ、柔道の山下泰裕、レスリングの高田裕司らが涙ながらに五輪参加を訴えた。同日付の参加要望書を柴田勝治JOC委員長に提出。23日のJOC臨時常任委員会では原則として参加すると申し合わせた。

 だが、政府は4月25日、日本体協、JOCに「派遣は望ましくない」との見解を示した。これによって、日本のモスクワ五輪参加の可能性は極めて小さくなった。

 5月に入り、フランスは参加、西ドイツは不参加を決めるなど各国の姿勢が明確になっていくなか、JOCは22日、規模を縮小して派遣することを検討するとした上で、ナショナル・エントリー(国別参加申し込み)締め切り日となる5月24日の臨時総会で最終的な結論を出すことを決めた。

 5月24日当日、日本体協はJOC臨時総会を前に臨時理事会を開催。JOCのエントリーに反対することを全会一致で決議した。臨時理事会には政府から伊東正義官房長官らも列席する異例の事態となった。

 JOC臨時総会では柴田委員長が「この日午前の体協臨時理事会がまとめた決議を参考にしたい」と発言した上で、各委員に意見を求めた。その後、挙手によって賛否を問い、参加13、不参加29、棄権2で不参加を最終決定した。

 6月11日、日本陸連は「幻」のモスクワ五輪の代表を発表した。監督は小掛照二氏。コーチは高橋進氏、中村清氏、広島日出国氏、大西暁志氏。選手は男子が豊田敏夫(新日鉄)、森口達也(神戸製鋼)、喜多秀喜(神戸製鋼)、伊藤国光(鐘紡)、中村孝生、新宅雅也、瀬古利彦(以上エスピー食品)、宗茂、宗猛(以上旭化成)、長尾隆史(三菱自工)、片峯隆(福岡大)、阪本孝男(筑波大)、高橋卓巳(土庄高教員)、白井淳一(順大教)、吉本敏寿(山陽高教)、室伏重信(中京大教)。女子は八木たまみ(関東学園大)、松井江美(美作高)。

 瀬古はボイコットが決まった際の心境について後年「意外と心の中で準備はしていた。仕方ないなという思いだった。当時の勢いや若さを思えば負ける気がしなかったし、それなりの成績は出していたと思う。そうなると、その後の五輪も全然違ったかな。五輪だけがマラソンじゃないとなぐさめられたけど、後々に悔しくなってきた」と述べている。

 7月19日、米国、日本、西ドイツ、中国など多くの国が不参加の第22回オリンピック大会がモスクワで開幕した。81ヵ国・地域が参加。男子マラソンはワルデマル・チェルピンスキー(東ドイツ)が2時間11分03秒で2連覇を果たした。英国は政府のボイコット呼びかけに応じず出場に踏み切り、男子800mのスティーブ・オベット、1500mのセバスチャン・コー、十種競技のデイリー・トンプソンが金メダルを獲得した。

 9月16日には日本政府の資金援助で日本陸連は体協、JOCと共催し、国立競技場に16ヵ国、220人の選手を集めてモスクワ五輪の代替大会、東京国際スポーツ大会を開催。10000mで日本記録保持者の鎌田俊明(鐘紡)が28分41秒6、5000mでも井手健二(九電工)が13分48秒1の好タイムで制するなど、4種目に優勝した。

 9月20日には第2回8ヵ国陸上(国立)を開催。米国、ソ連、西ドイツ、英国、フランス、イタリア、ポーランド、日本が参加した第1回からフランスがフィンランドに入れ替わり、フランス、スウェーデンも長距離にオープン参加。前回に続いて「デサント陸上」の冠大会となった。男子10000mの瀬古が28分38秒7で日本勢ただ1人の優勝となった。200mの世界記録保持者、ピエトロ・メンネア(イタリア)がモスクワ五輪の自身の優勝タイムを上回る20秒03で制した。

 第64回日本選手権は10月25、26日に国立競技場で開催。女子走高跳で福光久代(大昭和)が1m91の日本新。400mハードルの青井由美子(関東学園大)は自身の日本記録を59秒26に更新した。

 12月7日の第15回福岡国際マラソンには強豪がそろい、瀬古が五輪マラソン2連覇のワルデマル・チェルピンスキー(東ドイツ)を破って実力を示し、2時間9分45秒で3年連続優勝を果たした。

ロサンゼルス五輪へ再スタート、瀬古の進撃続く

 1984年ロサンゼルス五輪へ向けた再スタートの年となった1981年(昭和56年)、1月31日~2月1日に第4回太平洋沿岸5ヵ国大会がニュージーランド・クライストチャーチで開催。男子棒高跳の高橋卓巳(土庄高教)が5m25、ハンマー投の室伏重信(中京大教)が69m52で優勝した。1月21日に1m92の日本新を出した福光久代(大昭和)は1m89で快勝。女子4×100mリレー(遠藤ゆかり、大迫夕起子、貝原澄子、秋元恵美)は3位ながら、45秒70の日本新を出した。

 2月8日に「読売日本テレビ東京マラソン」が始まり、喜多秀喜(神戸製鋼)が2時間12分04秒で優勝。3月1日には東京都とニューヨーク市の姉妹提携20周年を記念した「東京・ニューヨーク友好マラソン」(フジサンケイグループ主催)が始まり、ロドルフォ・ゴメス (メキシコ)が2時間11分00秒で勝った。翌年からは東京都心部の高越事情から警視庁が同じ年に両方の大会を開催することは認めず、偶数年に読売新聞社主催、奇数年をフジサンケイグループ主催とする「東京国際マラソン」として行うことになった。

 3月22日にクライストチャーチで行われた国際競技会の30000mで、瀬古利彦(エスビー食品)が1時間29分18秒8の世界新で優勝。25000mの途中計時でも1時間13分55秒8の世界記録。2位の新宅雅也(エスビー食品)も1時間29分57秒3で従来の世界記録を上回った。

 国際陸連(IAAF)は3月23日にCMの出演報酬を競技者でなく陸連が受領するかたちであればアマチュア規定に抵触しないと改正した。4月24日には女子の五種競技に代わって七種競技を公認した。

 4月19日の第85回ボストンマラソンでは、瀬古は2時間9分26秒で優勝した。

 6月5~7日にアジア陸上(アシックス陸上)を東京・国立競技場で開催した。イスラエル、台湾を招待せず、今回も「選手権」の呼称は使わない一方、大会回数はアジア選手権の回数を引き継いで第4回大会とした。日本は19種目で優勝した。女子の400mハードルは青井由美子(関東学園大)が59秒26のアジアタイ・日本タイで連覇。4×100mリレー(逢坂十美、大迫、小西、秋元)でも45秒70のアジア新で4連覇した。女子の長距離は、高校生の増田明美(成田高)が3000mを9分18秒17のアジア新で制覇。オープン種目の10000mでも33分13秒22の日本新を樹立した。走高跳の福光久代(大昭和)も1m93のアジア新で勝った。

 男子200mの豊田敏夫(新日鉄)は20秒99、400mの磯辺隆之(筑波大)は46秒72、1500mの石井隆士(秦野高教)は3分50秒63で制した。10000mは伊藤国光(鐘紡)が28分53秒29で勝ったが、オープン参加の瀬古は28分44秒98を記録した。110mハードルでは藤森良文(柏高教)が14秒22、400mハードルは長尾隆史(三菱自工)が50秒32、3000m障害は新宅雅也(エスビー食品)が8分29秒09で1位。リレーでも4×100m(有川秀之、豊田敏夫、山崎博仁、池田秀樹)は39秒86、4×400m(磯辺隆之、名取英二、大森重宜、長尾隆史)が3分07秒06で勝った。フィールドでは棒高跳の高橋が5m20、ハンマー投の室伏が69m62で優勝した。

 女子では400mの吉田淳子(中大)が54秒89の日本新で制し、100mでも大迫夕起子(大昭和)が11秒91、200mの小西恵美子(烏山女高教)が24秒48、100mハードルの秋元恵美(上尾沼南高教)が13秒78で1位になった。

 この大会はもともとフィリピンで開催予定だったが競技施設の改修工事が間に合わないことを理由に返上。日本が開催を引き受けた。

 7月19~30日にはユニバーシアード大会(ルーマニア・ブカレスト)が開催され、男子400mハードルの長尾隆史(三菱自工)が51秒69で7位に愁傷した。

 9月2日の国際陸連総会(ローマ)で新会長にプリモ・ネビオロ氏が選出された。アジア地区代表評議員の安田誠克氏は辞任したが、アジア陸連会長はAAAA緊急理事会で引き続き務めるよう要請された。

 9月4~6日には地域別対抗戦の第3回ワールドカップ(W杯)がローマで開催。男子3000m障害の新宅雅也(エスビー食品)が8分23秒64で3位に入った。

 国際オリンピック委員会(IOC)は9月30日、西ドイツ・バーデンバーデンで開いた総会で1988年の第24回オリンピックの開催都市をソウルに決めた。有力視されていた名古屋は投票で敗れた。10月1,2日の総会では1984年ロサンゼルス五輪から女子マラソンを採用することを決定した。

 第65回日本選手権は10月24、25日に東京・国立競技場で開催。女子100m、200mを高校生の磯崎公美(山北高・神奈川)が制した。400mは高畑いずみ(長浜高・滋賀)と久保田真由美(東女体大)が55秒18の同着優勝となった。9月12、13日の日本選手権混成(岐阜)から五種競技は七種競技となった。

 10月25日のニューヨークシティ・マラソンは、アルベルト・サラザール(米国)が2時間8分33秒6の大会新で優勝。初の賞金レースで賞金30万ドルを受けた。

 11月28日には国際大学スポーツ連盟(FISU)実行委員会(ローマ)で1985年のユニバーシアード大会が兵庫・神戸で開催されることが決まった。

 12月6日の福岡国際マラソンではロバート・ド・キャステラ(豪州)が2時間8分18秒で優勝した。10月のニューヨークシティーでサラザールが出した2時間8分13秒はデレク・クレイトン(豪州)の2時間8分33秒6の世界最高を12年ぶりに破ったとされたが、1984年12月に米国陸連の調査で「150m短かった」ことが判明し、取り消された。このためキャステラが福岡で出した記録が後に「世界最高」として認定された。

ニューデリー・アジア大会で室伏4連覇、磯崎4冠

 1982年(昭和57年)1月24日、大阪国際女子マラソンがスタート。リタ・マルキシオ(イタリア)が2時間32分55秒で優勝した。

 4月1日には安田誠克氏が陸連副会長を辞任。6月30日に河野謙三日本体協会長、田畑政治同副会長が病気療養中のため、青木半治理事が日本体協副会長に就任した。

 9月4日の国際陸連(IAAF)総会(ギリシャ・アテネ)で、競技者基金制度の設置を認めた。賞金大会の誕生により選手の賞金や出場料を、その国の陸連が一時的に保管し、選手の強化に充てる制度。必要に応じて、そのつど口座から引き出され、残りは引退するときに選手に返還される。

 第66回日本選手権は9月11、12日に東京・国立競技場で行われ、200mの男子で豊田敏夫(新日鉄)が20秒81、女子の磯崎公美(山北高・神奈川)が24秒18と、ともに日本新で優勝。女子400mハードルの秋元千鶴子(国士大)は58秒58の日本新を出した。9月4、5日の日本選手権混成(岐阜)の女子七種競技では、内田知子(茗友ク)が5482点の日本新で6連覇した。

 9月24日には米国、ソ連、東西のドイツ、イタリア、フランス、カナダ、日本が参加して第3回8ヵ国対抗(国立)を開催。「コカコーラ陸上」のサブタイトルが付いた。男子5000mで新宅雅也(エスビー食品)が2位ながら13分24秒59の日本新。女子200mの磯崎公美(山北高)は24秒00(6位)、10000mにオープン参加の佐々木七恵(岩手陸協)は32分58秒49のともに日本新を出した。男子棒高跳の高橋卓巳(土庄高教)、神谷晃尚(筑波大)が5m45で1位。全米選手権で2冠のカール・ルイス(米国)が登場し、100mを10秒32で制した。

 11月19日~12月4日の第9回アジア競技大会はインドのニューデリーで開催された。ニューデリー開催は第1回大会以来31年ぶり。日本は小掛照二監督以下、男子33、女子20選手参加。金メダル15個を獲得し、12個の中国から1位の座を2大会ぶりに奪い返した。

 男子ハンマー投は「アジアの鉄人」37歳の室伏重信(中京大教)が71m14の大会新で4連覇を達成。大会最優秀選手に選ばれ、銀のカップを贈られた。

 磯崎は200mで24秒22、400mは54秒43のともに日本新で優勝。4×100mリレー(小西恵美子、秋元恵美、吉田淳子、磯崎)は45秒13のアジア・日本新、4×400mリレー(越本ひとみ、吉田、高畑いずみ、磯崎)は3分37秒44の日本新で制し、磯崎はすべて日本新で4冠という快挙を成し遂げた。

 女子やり投の松井江美(中京大)は60m52の日本タイで金。100mハードルは秋元恵美(上尾沼南高教)が13秒63の日本新で1位になり、400mハードルの青井由美子(関東学園大)は2位ながら59秒08の日本新を出した。

 男子は400mの高野進(東海大)が46秒65で、男子短距離個人種目で3大会ぶりの金メダル。5000mは新宅雅也(エスビー食品)が13分53秒74、110mハードルは藤森良文(柏高教)が14秒09、400mハードルの長尾隆史(三菱自工水島)が50秒60、3000m障害の河野匡(筑波大)が8分47秒36、4×400mリレー(麻場一徳、大森重宜、川角博美、臼井淳一)は3分06秒75で優勝した。フィールドでは棒高跳の高橋卓巳(土庄高教)が5m30で日本勢9連覇。やり投の武田敏彦(瀬田工高教)が75m04で制した。

 大会終了後にはアジア競技連盟(AGF)が発展的に解消し、アジア・オリンピック評議会(OCA)が発足した。

第1回世界選手権開催、日本も出場

 1983年(昭和58年)は1月23日に第1回都道府県対抗女子駅伝(京都・西京極)が始まり、千葉が2時間29分02秒で初代女王に君臨した。3月20日には世界初の国際駅伝として第1回横浜国際女子駅伝が行われ、ソ連が2時間19分53秒で優勝。3月26日に国際オリンピック委員会(IOC)は南部忠平氏ら14人にオリンピック功労章銀賞を授与すると発表した。

 7月3日に米コロラドスプリングズで行われた大会の100mで男子のカルビン・スミスが9秒93、女子のエベリン・アシュフォード(ともに米国)が10秒79の世界新をマークした。この会場は標高1800mを超える高地。メキシコ五輪と同じように空気抵抗が少ない条件であることから国際陸連は状況を検討。国際陸上競技統計者協会(ATFS)では、海抜1000m以上で生まれた記録に「A」を付記することになった。

 7月1日~11日にカナダ・エドモントンでユニバーシアード大会が開催され、男子10000mで米重修一(大東大)が28分55秒37で優勝した。

 8月7日~14日、国際陸連(IAAF)が主催する第1回世界選手権大会がフィンランド・ヘルシンキで開催された。

 陸上の最高峰の大会はオリンピックだけだった。しかし、五輪は政治問題やボイコットによる影響を受け、「陸上競技だけの世界一を決める大会を」という機運が高まった。IAAFは国際オリンピック委員会(IOC)が世界の底辺諸国をできるだけ集めてレベルよりも参加国数の多さを示そうとする姿勢に対抗し、世界最高の技術水準を披露する世界選手権の開催を目指すこととした。

 第1段階として1977年にドイツ・デュッセルドルフで第1回のワールドカップを開催。この大会は地域別対抗戦のため、出場選手の意識は上がらず、開催地では入場券の売り上げも伸びずに赤字が続いた。

 日本も1964年10月に東京で行われた国際陸連総会で五輪の中間年に世界選手権を開催するよう提唱し、第1回大会を引き受けるとも表明した。この時の提案は否決されていたが、機は熟し、1978年にプエルトリコで開かれた国際陸連の評議員会で世界選手権の実施が決まった。

 大会には153ヵ国・地域から約1300人の選手が参加し、男女41種目が実施された。日本は小掛照二氏を監督に、男子14、女子6選手が参加した。

 日本勢では男子3000m障害の愛敏重之(中京大)が予選で8分31秒27の自己ベストをマークしたが、準決勝は8分33秒29の2組11着で落選した。男子棒高跳は予選途中で雨のため中止になり、全員が決勝へ。高橋卓巳(高瀬高教)は5m25で19位だった。

 マラソンは、男子は西村義弘(新日鉄)の35位(2時間18分56)が最高。女子の日本人トップは田島三枝子(旭化成)で31位(2時間47分10秒)だった。

 9月11日に米国オレゴン州ユージンで行われたナイキ・オレゴンTCマラソンの女子で、増田明美(川鉄千葉)が2時間30分30秒の日本最高で優勝した。

 第67回日本選手権は国立競技場で開催。新宅雅也(エスビー食品)が5000m、3000m障害の2冠。9月3、4日の日本選手権混成(岐阜)では男子十種競技で古城健(筑波大)が7460点の日本新を樹立した。

 10月16日に河野謙三名誉会長(日本体協会長)が82歳で死去。

 11月5~9日に第5回アジア選手権がクウェートで開催。中国勢の躍進が目覚ましく、日本の金メダルは4個にとどまった。女子100mハードルは佐々木恵美(上尾沼南高教)が13秒63の日本タイで優勝。男子やり投は吉田雅美(和歌山県教委)が79m50で勝ち、2位には溝口和洋(京産大)が70m12で続いた。女子400mハードルは佐藤陽子(富岡東高)が58秒89、秋元千鶴子(国士舘大教)が59秒95で1、2位を占めた。七種競技では橋本寿子(東女体大)が5486点で勝った。

 11月20日の第5回東京国際女子マラソンで佐々木七恵(エスビー食品)が2時間37分09秒で日本人初制覇を果たした。

 この年2月の東京国際マラソンでは足の故障でマラソンから遠ざかっていた瀬古利彦(エスビー食品)が1年10ヵ月ぶりのフルマラソンに挑み、日本人初の2時間8分台となる2時間8分38秒で優勝した。

 ロサンゼルス五輪代表選考会を兼ねた12月4日の福岡国際マラソンではジュマ・イカンガー(タンザニア)と終盤まで競り合い、ラスト100mの鮮やかなスパートで、2時間8分52秒で3年ぶり4度目の優勝を果たした。3位の宗茂、4位の宗猛(ともに旭化成)までが五輪代表に決まった。

ロサンゼルス五輪、マラソンはメダル届かず

 1984年(昭和59年)、4年前のモスクワ五輪をボイコットした日本にとっては8年ぶりの五輪イヤーとなった。

 1月16日に新設の大阪城ホールで国際室内大阪大会開催。

 5月29日には日本学生陸上競技連合が文部省より社団法人の認可を受けた。

 7月20日には男子やり投でウーベ・ホーン(東ドイツ)が104m80の世界新。ついに100m時代が到来したが、国際陸連は危険防止のため、1986年にやりの規格を変更している。

7月28日~8月12日、第23回オリンピックが米国・ロサンゼルスで開催された。前回のモスクワ大会を西側諸国がポイコットし、今回は報復措置としてソ連オリンピック委員会が5月8日に不参加を発表。東ドイツ、ブルガリアなど東側諸国が同調してボイコットし、ハンガリー、ポーランド、キューバ、北朝鮮、エチオピアなど16ヵ国が不参加となった。ロサンゼルスでの五輪開催は、日本が跳躍を中心に大活躍した1932年大会以来52年ぶり。このロサンゼルス五輪から入賞の範囲が6位から8位に広げられた。

 日本は小掛照二監督以下、男子16、女子6人が参加。瀬古利彦(エスビー食品)、宗茂、宗猛(ともに旭化成)のモスクワ大会と同じ顔ぶれで挑んだ男子マラソンに大きな期待と注目が集まった。

 レースは大会最終日の8月12日、107人が参加して午後5時にスタートした。瀬古は万全の体調とはほど遠かったものの、先頭集団に食い下がった。30kmを過ぎて、アルベルト・サラザール(米国)やロバート・ド・キャステラ(豪州)ら有力選手が後退していった中で瀬古は必死に粘ったが、34kmで力尽き、2時間14分13秒の14位でフィニッシュを迎えた。

 宗猛は日本勢で最後まで先頭集団で踏ん張る。35kmで遅れたものの最後まで力走して前を追い、2時間10分55秒で4位入賞を果たした。宗茂は2時間14分38秒で17位だった。カルロス・ロペス(ポルトガル)が2時間9分21秒の五輪新で金メダル。この種目37歳での優勝は最年長記録となった。

宗猛 1984ロス五輪 ©フォート・キシモト

 男子やり投では吉田雅美(和歌山県教委)が予選を81m42で軽々と通過。決勝は2投目に81m98を投げ、この時点で3位に浮上する。その後、記録は伸ばせなかったものの5位と、この種目で日本勢初の入賞を果たした。溝口和洋(ゴールドウイン)は74m82で予選で敗退している。

 走幅跳では臼井淳一(デサント)が予選を8m02(+1.8)で通過。決勝は7m87(-1.8)で7位と、1936年ペルリン五輪以来48年ぶりの入賞を飾った。10000mの金井豊(エスビー食品)も28分27秒06で7位。この種目の入賞は1964年東京大会の円谷幸吉(6位)以来だった。新宅雅也(エスビー食品)は28分55秒54で16位。

臼井淳一 1984ロス五輪 ©フォート・キシモト

 男子の400mでは7月末に45秒85の日本新を出した高野進(東海大)が1次予選、2次予選を突破。準決勝でも45秒88と奮闘したが、1組8着で決勝進出はならなかった。高校生スプリンター、不破弘樹(東農大二高・群馬)は100m1次予選5組で10秒56(+1.4)の4着。プラス通過で臨んだ2次予選は10秒75(-1.4)の6着にとどまった。200mは1次予選5組で21秒37(+0.9)の5着で敗退。髙野をアンカー、不破を3走に抜擢し、1、2走を400mハードルの大森重宜と吉田良一でつないだ4×400mリレーは、予選を3分08秒16の1組5着で通過。準決勝は3分10秒73の1組8着で敗退した。

 棒高跳の高橋卓巳(高瀬高教)は予選を5m30で通過。決勝は跳び始めの5m10をクリアできず、記録なしに終わった。男子ハンマー投には、五輪直前にカリフォルニアでの競技会で75m96の日本新をマークした室伏重信(中京大教)が出場。だが、は両膝の故障が悪化し、1投目の70m92が最高で71m38の通過記録に届かなかった。

 女子では新採用のマラソンに増田明美(川鉄千葉)、佐々木七恵(エスビー食品)が出場したが、増田は16km地点で棄権。佐々木は自身のペースを守り、2時間37分04秒で19位だった。ジョーン・ベノイト(米国)が2時間24分52秒で初代女王となった。

 この大会は地元のスーパースター、はカール・ルイス(米国)のための大会となった。男子100mは9秒99(+0.2)、200mは19秒80(-0.9)の五輪新で金メダル。走幅跳は1回目に8m54を跳び、その後の5回の試技をパスして優勝し、アンカーを務めた4×100mリレーは37秒83の世界新で制覇。年ベルリン大会のジェシー・オーエンス(米国)以来となる4冠の偉業を成し遂げた。

 9月14日には第4回8ヵ国対抗(東京・国立競技場)が開催。ルイスの出場が人気を呼び、超満員6万人の大観衆を集めた。その期待に応え、ルイスは100mを10秒13で制した。日本勢は男子400mで高野進(東海大)が45秒69のアジア・日本新で優勝している。第5回大会は1986年に開催予定だったが、この年は9月20日から第10回アジア競技大会がソウルで開催され、日程調整が困難なため第5回以降は取りやめになった。

 9月28日にソウルで開かれたアジア・オリンピック評議会(OCA)総会で1990年の第11回アジア競技大会を中国・北京、1994年の第12回大会を広島で開くことを決めた。

 10月20、21日の第68回日本選手権は国立競技場で開催。記録は全般的に低調だった。

 12月3日に日本陸連名誉副会長の浅野均一氏が名誉会長に推挙された。同13日に浅野名誉会長は84歳で死去した。

 1985年(昭和60年)、1月18、19日に国際陸連(IAAF)室内世界ゲームズがフランス・パリで開催された。日本は不参加。この大会は1987年の次回大会からは「世界室内選手権」として実施された。

記事提供:月刊陸上競技