メダリスト
第27回オリンピック 2000 シドニー大会
高橋尚子(積水化学)女子マラソン
Takahashi Naoko
岐阜県岐阜市出身
岐阜県立岐阜商高→大阪学大→リクルート→積水化学→スカイネットアジア(SNA)航空→ファイテン
2000年シドニー五輪女子マラソンで、日本女子陸上界初の金メダリストとなった。「Qちゃん」の愛称で親しまれている。
岐阜市立藍川東中で陸上を始める。県立岐阜商高2年時に初めて全国都道府県対抗女子駅伝に出場し、区間順位は47位中45位。インターハイには800mで出場したが予選敗退。高校時代は全国で目立った成績は残せなかった。
大阪学大に進み、日本学生種目別選手権女子1500mで優勝して全国で初タイトルをつかむ。日本インカレでも表彰台に立ち、全国レベルの選手に成長した。
小出義雄監督の指導を希望し、1995年リクルートに入社。有森裕子ら日本トップクラスの選手が多く所属するチームの中で力をつけた。初マラソンは1997年の大阪国際女子マラソン、2時間31分32秒で7位だった。
1997年、小出監督の移籍に伴い積水化学へ転籍。同年の世界選手権アテネ大会女子5000m日本代表に選ばれ、予選を通過、決勝では13位だった。
1998年3月の名古屋国際女子マラソンで、当時の日本最高記録となる2時間25分48秒でマラソン初優勝。30km過ぎからの猛烈なスパートが強い印象を残した。同年5月のIAAFグランプリ大阪大会女子5000mを制し、IAAF国際グランプリシリーズで日本女子初の優勝者となった。同年12月のバンコク・アジア大会は、マラソンで当時のアジア最高記録となる2時間21分47秒で栄冠に輝いた。
2000年3月の名古屋国際女子マラソンでは、2時間22分19秒で2年ぶり2度目の頂点に立ち、シドニー五輪代表の座をつかんだ。迎えた同年9月の五輪本番、34km過ぎでサングラスを道へ投げた直後にスパートし、競り合っていたリディア・シモン(ルーマニア)を突き放してそのままトップでフィニッシュ。タイムは2時間23分14秒で、16年ぶりに五輪最高記録を更新。日本陸上界64年ぶりで戦後初、日本女子陸上史上初の金メダル獲得となった。「とても楽しい42.195kmでした」という名言を残している。
2001年、積水化学に所属したままプロ宣言。同年9月のベルリン。マラソンは2時間19分46秒で優勝し、当時の世界最高記録を樹立した。女子で世界初の2時間20分切り、日本女子マラソン初の世界記録保持者となった。
2002年はベルリン・マラソンで2連覇を果たし、フルマラソン6連勝を達成した。しかしその後、肋骨の疲労骨折が判明。2004年アテネ五輪の選考会にもなっていた2003年のパリ世界選手権への道を断念した。
恩師である小出の退職が決まったことから、自身も2003年2月に積水化学を退社。SNA航空と2年間の所属契約を結び、佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出氏から指導を受ける道を選んだ。同年11月の東京国際女子マラソンで2位となり、日本人トップだったものの、マラソンで6年10ヵ月ぶりに優勝を逃し、連勝記録も6で止まった。この結果、2004年アテネ五輪の代表には選出されなかった。
2005年、小出氏からの独立を宣言。ファイテンと4年間の所属契約を結び、「チームQ」として活動を開始。同年11月の東京国際女子マラソンで復活優勝を飾った。
度重なるケガに苦しみ、2006年東京国際女子マラソンは3位、2008年名古屋国際女子マラソンは27位。2008年10月、現役引退を発表した。
引退後は日本陸上競技連盟常務理事、日本オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任し、マラソン解説者、スポーツキャスター、スポーツ振興活動、企業の社外取締役など多方面で活躍している。
シドニー五輪での功績が称えられ、2000年女子スポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞した。
記事提供:月刊陸上競技

©フォート・キシモト
1972年5月6日生まれ岐阜県岐阜市出身
岐阜県立岐阜商高→大阪学大→リクルート→積水化学→スカイネットアジア(SNA)航空→ファイテン
2000年シドニー五輪女子マラソンで、日本女子陸上界初の金メダリストとなった。「Qちゃん」の愛称で親しまれている。
岐阜市立藍川東中で陸上を始める。県立岐阜商高2年時に初めて全国都道府県対抗女子駅伝に出場し、区間順位は47位中45位。インターハイには800mで出場したが予選敗退。高校時代は全国で目立った成績は残せなかった。
大阪学大に進み、日本学生種目別選手権女子1500mで優勝して全国で初タイトルをつかむ。日本インカレでも表彰台に立ち、全国レベルの選手に成長した。
小出義雄監督の指導を希望し、1995年リクルートに入社。有森裕子ら日本トップクラスの選手が多く所属するチームの中で力をつけた。初マラソンは1997年の大阪国際女子マラソン、2時間31分32秒で7位だった。
1997年、小出監督の移籍に伴い積水化学へ転籍。同年の世界選手権アテネ大会女子5000m日本代表に選ばれ、予選を通過、決勝では13位だった。
1998年3月の名古屋国際女子マラソンで、当時の日本最高記録となる2時間25分48秒でマラソン初優勝。30km過ぎからの猛烈なスパートが強い印象を残した。同年5月のIAAFグランプリ大阪大会女子5000mを制し、IAAF国際グランプリシリーズで日本女子初の優勝者となった。同年12月のバンコク・アジア大会は、マラソンで当時のアジア最高記録となる2時間21分47秒で栄冠に輝いた。
2000年3月の名古屋国際女子マラソンでは、2時間22分19秒で2年ぶり2度目の頂点に立ち、シドニー五輪代表の座をつかんだ。迎えた同年9月の五輪本番、34km過ぎでサングラスを道へ投げた直後にスパートし、競り合っていたリディア・シモン(ルーマニア)を突き放してそのままトップでフィニッシュ。タイムは2時間23分14秒で、16年ぶりに五輪最高記録を更新。日本陸上界64年ぶりで戦後初、日本女子陸上史上初の金メダル獲得となった。「とても楽しい42.195kmでした」という名言を残している。
2001年、積水化学に所属したままプロ宣言。同年9月のベルリン。マラソンは2時間19分46秒で優勝し、当時の世界最高記録を樹立した。女子で世界初の2時間20分切り、日本女子マラソン初の世界記録保持者となった。
2002年はベルリン・マラソンで2連覇を果たし、フルマラソン6連勝を達成した。しかしその後、肋骨の疲労骨折が判明。2004年アテネ五輪の選考会にもなっていた2003年のパリ世界選手権への道を断念した。
恩師である小出の退職が決まったことから、自身も2003年2月に積水化学を退社。SNA航空と2年間の所属契約を結び、佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出氏から指導を受ける道を選んだ。同年11月の東京国際女子マラソンで2位となり、日本人トップだったものの、マラソンで6年10ヵ月ぶりに優勝を逃し、連勝記録も6で止まった。この結果、2004年アテネ五輪の代表には選出されなかった。
2005年、小出氏からの独立を宣言。ファイテンと4年間の所属契約を結び、「チームQ」として活動を開始。同年11月の東京国際女子マラソンで復活優勝を飾った。
度重なるケガに苦しみ、2006年東京国際女子マラソンは3位、2008年名古屋国際女子マラソンは27位。2008年10月、現役引退を発表した。
引退後は日本陸上競技連盟常務理事、日本オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任し、マラソン解説者、スポーツキャスター、スポーツ振興活動、企業の社外取締役など多方面で活躍している。
シドニー五輪での功績が称えられ、2000年女子スポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞した。
記事提供:月刊陸上競技


